タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

鐙摺城跡

2015/06/03

三浦氏 城郭 葉山町

t f B! P L

鐙摺城跡と三浦大多和義久邸



三浦半島の入口となる鐙摺(あぶずり)にあったと伝わる砦は、三浦一族の城郭で、古くは『源平盛衰記』にもその存在が記されています。治承四年(1180)の小坪合戦(由比ヶ浜合戦)において、三浦一族と畠山重忠の軍勢が争った際、和田義盛が三浦義澄に対して立て籠もるよう進言した砦がこの鐙摺城です。


鐙摺


鎌倉から134号を伝い、逗子海水浴場、そして渚橋を過ぎると葉山港が近づいてきます。葉山港の辺りを鐙摺(あぶずり)と云います。葉山の入口で三浦半島の玄関口ともなります。このまま道を南下すると三浦半島の先端まで行けるので、近世の絵図に三崎道と記されていました。

国道134号 逗子海水浴場の辺り
小浜からの景色

鐙摺の地名の由来


『葉山町の歴史とくらし』に、源頼朝が三浦義澄に招かれ、三崎に赴くとき、鐙摺の険しく狭い道で馬の鐙(あぶみ)が岩に摺れたことに因んで命名されたとありました。周辺では古墳時代の集落が見つかっています。

葉山港

岩ヶ谷やぐら


近くで地味に目立たない小さな公園に横穴を見つけました。『三浦半島の史跡みち』に「岩ヶ谷やぐら」と記されていましたが、このことでしょうか。形状からしてやぐらのようです。『史跡みち』が云う史跡と同一であるならば、ここからは縄文・弥生時代の土器から近世の古銭まで色々と発見されているそうです。ここに一体何があったんでしょう?

岩ヶ谷やぐら

日影茶屋


葉山港入口を過ぎると日影茶屋というお店が現れます。古風な建物に風格が備わっています。それもそのはず。『三浦半島の史跡みち』によれば、「『新編相模国風土記稿』に既に「葉山茶屋」とその存在が記されている」とありました。江戸時代から三崎道の休息茶屋として300年の歴史を持ちます。凄いですね。

日影茶屋

鐙摺城跡


日影茶屋の対面にある旗立山・軍見山・鐙摺山とも呼ばれる標高25mの岩山が鐙摺城跡です。三浦大介義明は、ここに三男の大多和義久を置き、長柄には家子長江義景を置いて、三浦半島の入口を固めました。この岩山だけでは、和田義盛が云っていたような、立て籠もって戦うなどといったことは考えられないので、この岩山は城郭のほんの一部かと思われます。

旗立山(鐙摺城跡)

鐙摺の葉山港は、関東大震災で地盤が隆起したため、3年がかりで築港し直しています。ですから砦の全貌は築港で失われただけでなく、地震による地形の変化もあったのかもしれません。『相模三浦一族とその周辺史』には「三方を海に囲まれた」とあったので、やはり葉山港を含む周辺一帯が鐙摺城の全体像だと思われます。

Google map 鐙摺
①旗立山 ②日影茶屋

もしやと思い近づいてみたところ、登っていけるようなので行ってみました。丘陵部をそのまま階段状に削り、何て言うのでしょう、七曲坂状態とでも言うのでしょうか、峠道のように蛇行しながら登って行きます。

七曲坂状?坂道

標高25mでも少しは高くなるので景色が開けました。三崎道と海岸線が望めます。


頂部平場は削平されていますが、城郭といった雰囲気は感じません。眼下に葉山港、そして向こうに江ノ島が見えました。

頂部平場

伊東祐親


鐙摺は、三浦義澄が伊東祐親を捕虜として預かっていた場所です。祐親は北条政子の懐妊により恩赦となりますが、その報せを聞いた直後、祐親はここ鐙摺で自害したと『吾妻鏡』に記されています。ちなみに現地案内板には「首をはねられた」とありました。こちらは曽我物語をソースにしているようです。そして平場の一画にはその伊東祐親の供養塔が祀られています。

大多和義久邸は?


有名な亀姫事件では、伏見広綱が亀姫を連れ命からがら逃げ出し、船に乗せて鐙摺にあった大多和義久邸に逃れたと『吾妻鏡』にあります。大多和義久は小坪坂を押さえていたと『相模三浦一族とその周辺史』にありましたが、邸はこちら鐙摺にあったようです。

Google map 鐙摺
①葉山港 ②旗立山 ③日影茶屋 ④鐙摺谷 ⑤岩ヶ谷やぐら ⑥渚橋

さて、大多和義久が鐙摺に邸を構えていたとありましたが、どの辺りでしょう。今となってはそれを知る手だてもありませんが、候補地としては、上記した岩ヶ谷やぐらがある辺り、もしくは、そのまま日影茶屋でしょうか。日影茶屋を奥に行くと、鐙摺谷と呼ばれる小谷戸となります。マンションが建てられるほどの平地があり、さらに地元名手の家によくある蔵のような建物が残されていました。

葉山町の史跡


新善光寺(葉山町)

新善光寺(葉山町)

『鎌倉廃寺事典』(以下廃寺事典)によれば、宗旨未詳。そして北条泰時が死去した際に新善光寺智導上人が念仏を勤めたとあります。また「風土記稿に新善光寺跡、名越にあり、新善光寺屋敷と唱う」とも記されています。実際にここ葉山の新善光寺に訪れてみると、浄土宗と縁起にあり、また『葉山町の歴史とくらし』(以下葉山町)には光明寺末寺とも記されていま...

長柄と長江一族

長柄と長江一族

長柄桜山古墳のある丘陵南側の谷を長柄と云います。葉山とはいえ、逗子との境に接するのでそれほど遠くは感じません。そして三浦半島を横たわるように存在する丘陵を、通称三浦アルプスと云います。阿部倉山・二子山・仙元山など、鎌倉の丘陵よりいくぶん高い...

葉山町上山口と三浦山口有綱

葉山町上山口と三浦山口有綱

葉山町の上山口は、近世まで下山口とともに山口郷と呼ばれていました。鎌倉時代にこの地を治めていたのが、三浦義澄の次男・有綱です。確証はないものの居城は栗坪の大昌寺だと『葉山町の歴史とくらし』にありました。ということで、今回は三浦一族の三浦山口...

葉山町堀内地区

葉山町堀内地区

葉山の鐙摺から森戸海岸の辺りまでを堀内と云います。堀内という地名は日本全国どこでもみられますが、お殿様の邸跡であったことにその名が由来するケースがほとんどのようです。ですからここ葉山の堀内にもどうやらお殿様がいたようです。もちろん三浦一族...

森戸神社

森戸神社

森戸神社 森戸神社は源頼朝が三島明神を勧請して創建されたと伝わる神社です。境内からの海の眺めに魅了される景勝地です。森戸神社の近くに「番場」という地名が伝わっています。往時では三浦氏の馬場があり、頼朝が馬揃えを検分したなどと伝わっています。そ...

木古庭不動尊と畠山陣地

木古庭不動尊と畠山陣地

葉山の奥地となる木古庭(きこば)は、横須賀市との境にあります。畠山重忠に由縁する木古庭不動堂や、日蓮が鎌倉に向う途中に立ち寄り法力で湧水させたと伝わる高祖井戸などの史跡が所在しています。このことからも三浦半島の重要な鎌倉街道が木古庭を通っ...

ブログ内検索

ブログ アーカイブ

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ