葉山町長柄と長江一族の史跡
長柄
長柄桜山古墳のある丘陵南側の谷を長柄と云います。葉山とはいえ、逗子との境に接するのでそれほど遠くは感じません。そして三浦半島を横たわるように存在する丘陵を、通称三浦アルプスと云います。阿部倉山・二子山・仙元山など、鎌倉の丘陵よりいくぶん高い山々が連なっています。阿部倉山の麓で出会った山男さんによれば、1500m級の山にチャレンジする登山者が訓練の場としてこの三浦アルプスを活用しているとおっしゃってました。少なくとも鎌倉寺社の裏山感覚で登るところではないようですね。
今回はこの長柄を領していた長江氏の屋敷地だった伝わる義景大明神のある場所を中心に、長江氏に関する史跡をめぐってみました。
長江一族
長柄には三浦氏の家子・長江氏が邸を構えていました。家子というと朗従などの低い身分を想像する方もいるかもしれませんが、いえいえ、長江氏は鎌倉の御家人に列する立派な一族です。そもそも家子とは主家と血縁関係のある従者を云います。三浦氏が主家とはなりますが、長江氏は鎌倉権五郎景政を祖先とする由緒正しい家柄です。
『吾妻鏡』寿永元年(1182)2月8日条には、頼朝が長江太郎義景を神宝奉行として伊勢へと向わせている記事がみられます。その他、この長江義景に関しては、文治三年(1187)8月15日、鶴岡八幡宮放生会の射手を務めるなどとあります。また、治承四年(1180)の衣笠合戦では中陣の守りに付いています。
長柄交差点 向こうに見える丘陵に桜山古墳がある |
長江氏所縁の史跡
長柄にある長運寺は、鈴木かほる著『三浦半島の史跡みち』によれば、平安末期、長江義景が祖父・鎌倉権五郎景政を祀るため、衣笠城内の箭執不動を分祀し、景政山と号したとありました。また長運寺からも近い場所にある御霊神社は長江氏が勧請したものです。確かに、長柄には長江氏の痕跡が史跡として点在しています。
長運寺 |
長柄御霊神社 |
長柄長徳寺跡
長運寺・御霊神社から県道311号を挟んだ向こうにある阿部倉山の麓に庚申塔・馬頭観音などの石塔が置かれている場所があります。さらに奥に入って行くと、六地蔵・五輪塔・無縫塔などが並べられています。ここには長徳寺というお寺があったそうです。
阿部倉山 |
『三浦半島の史跡みち』によると、開山は建武二年(1335)に寂した南山士雲の開山とあり、『葉山町の歴史とくらし』には天文元年(1532)の創建とありました。また2004年に老朽化のため取り壊されたとも記されています。南山士雲はどこかで聞いたことのある名前です。鎌倉遺構探索の『建長寺歴代住持』によれば、南山士雲は、建長寺19世長老で、弁ヶ谷にあった崇寿寺、金沢の泥牛庵などの開山にも迎えられています。
長徳寺跡 |
長徳寺には畠山重忠の守護仏・念持仏と伝える地蔵立像がありましたが、長徳寺が廃された後、同じく長柄にある仙光院に引き取られたと地元の方にうかがったので、早速その仙光院に向かいました。鎌倉時代中期の作品で運渓道人の作なんだそうです。がしかし、まだまだ仏像の勉強が足りない自分には、これを鎌倉時代の仏像と本気で言っているのか、よくわかりませんでした。
畠山地蔵 |
福巌寺
長徳寺跡西側にある福厳寺(ふくごんじ)は、『三浦半島の史跡みち』には貞和四年(1348)創建、『葉山町の歴史とくらし』(以下歴史とくらし)には、鎌倉時代末頃の創建とありました。まぁどちらにしろ長江氏の菩提寺であることには間違いないようです。開基の月峰心満が尼であるのは、太平寺の隠居寺として建てられた事情があるそうです。
福厳寺 |
福厳寺は臨済宗建長寺派です。整然とした境内がいかにも臨済宗の禅寺といった感じで、葉山には失礼ですが、ここだけちょっと鎌倉っぽい雰囲気で素敵です。
福厳寺境内 |
『葉山町の歴史とくらし』に、境内には三浦大介義明の娘で長江義景の妻だったみわ御前のものと伝わる墓があると記されていましたが、下画像の五輪塔がそうかもしれません。壁面がやぐらのように掘られていて丁重に安置されているように思えます。やぐらはもともとこのような浅い掘りだったのか、風化してこうなったのか、ちょっと判断がつきません。
境内にあった古そうな五輪塔 |
義景大明神
福厳寺から奥に入っていった棚田地帯に義景大明神と呼ばれる社殿と長江氏のものと伝わる五輪塔があります。『三浦半島の史跡みち』に印された地図を頼りにたどり着きましたが、どう見ても観光客が行っていいような場所には思えなかったため、間違えたと思い、一度は引き返しましたが、地元の方から「そこだよ行っていいよ」と言われたので、ようやく足を踏み入れることができました。
殿谷戸 |
棚田を奥に進むと社殿が現れます。義景大明神と呼ばれています。さらに本殿の裏にやぐらが施されています。やぐらには三基の五輪塔が安置されていて、長江氏三代の墓と伝わっています。この谷を殿谷戸(とのやと)もしくは大山殿ヶ谷(おおやまとのがやと)と云い、長江氏の邸跡と伝えられているそうです。鎌倉と違って「谷」を「やつ」とは読まないみたいですね。
義景大明神 |
長江三代の墓 |
その後の長江一族
長江氏は、義景の孫にあたる義重が宝治合戦に三浦方として参戦し、三浦一族と共に頼朝法華堂で殉しています。また、和田合戦の際に和田方として参戦した深沢三郎景家なる人物も長江一族でした。なぜ苗字が深沢なのかというと、一族の一部が深沢に邸を構えた、もしくは地頭だったものと思われます。そしてその後、元亨三年(1323)執権貞時の13回忌、さらには南北朝・室町期でも長江氏の記録が残されています。一族の全てが三浦氏に殉した訳ではなかったようです。
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