2016年7月20日水曜日

鴨居と多々良氏


三浦半島の東南に位置する鴨居は、三浦氏全盛の時代に一族の多々良氏が領していたと云われています。三浦一族ながら『吾妻鏡』などではいまいち存在感の薄い多々良氏ですが、今回はその多々良氏と鴨居に焦点を当ててみました。

Google map 鴨居
①鳥ヶ崎 ②上の台 ③西徳寺 ④鴨居八幡神社 ⑤亀崎 ⑥腰越 ⑦三昧堂 ⑧たたら浜 
⑨権現洞穴(観音崎) ⑩三軒谷

鴨居の古代遺跡


浦賀と走水という比較的誰もが知る土地に隣接する「鴨居」をネットで検索すると、横浜市の鴨居に関する記事がトップページを占めてしまいます。神奈川の人ならともかく、東京の人だと横須賀に鴨居という土地があること自体を知らない人も多いかもしれません。そんな鴨居では、鳥ヶ崎(上地図画像①)と多々良浜⑧で大規模な古墳時代横穴墓群が見つかっており、またその鳥ヶ崎①・上の台②・鴨居八幡神社④などでは弥生時代から続く住居跡が発見されています。さらに、上の台②からは中世以前の城郭に見られる集合墳墓が見つかっています。

たたら浜園地

関連記事:『多々良浜横穴墓群


鴨居の名の由来


横須賀市のHPでは、鴨居の名の由来について、①「アイヌ語のカムイ(神)からという説」②「鴨の群集する所、家居、村落とする説」③「カモを神とする説」④「浦のある水辺とする説」などがあると紹介されています。特にアイヌ語の「Kamui」(神)から「kamoi」に転訛したのではないかというアイヌ語由来説は、一部の言語研究者からも支持されているようです。但し、室町時代の文献には「鴨江」とも記されています。

鴨居の鎮守八幡神社

多々良氏


三浦大介義明の四男、四郎義春がここ多々良の地を領したので多々良氏を名乗ったと云われています。『吾妻鏡』では義春ではなく、子の三郎重春・四郎明宗などの存在が記されています。三郎重春は三浦一族と畠山重忠の軍勢が由比ヶ浜で衝突した合戦にて郎従の石井五郎と共に討ち死にしています。その後、四郎明宗が多々良氏を継いだようで、七郎と共に文治元年(1185)・建久元年(1190)・建久六年(1195)・建仁四年(1204)などで吾妻鏡にその名が記されています。

材木座来迎寺にある多々良三郎重春と三浦大介義明の墓

関連記事:『三浦氏系図


石井塚と石井兄弟


『相模武士三浦党』では、鵜羽山中の塚畑と呼ばれる畑地に「石井塚」「多々良塚」「ケイチャウ塚」などとと呼ばれる塚が存在することを紹介しています。『横須賀こども風土記』でも多々良四朗義春の海賊退治のエピソードとともにこの「石井塚」の存在が記されています。横須賀こども風土記では『新編相模国風土記稿』にある「石井塚とは小坪合戦で多々良重春と共に討ち死にした石井五郎の墓ではないか」という説を紹介していました。

鵜羽山にある北門第二砲台跡

討死にした重春の父の多々良四朗義春が石井三郎・四郎兄弟と海賊退治を行ったエピソードが伝えられています。毒竜丸に乗っていた30人ほどの海賊を石井三郎・四郎兄弟らが一網打尽にしました。しかし石井三郎・四郎兄弟は、海賊の首領の夜叉太郎との戦いで受けた傷が原因で死んでしまいます。また、”島の波六”などの降伏した海賊らが観音寺の堂守になって、その後鴨居で暮らしたとありました。重春と小坪で討ち死にしたという石井五郎がこの石井三郎・四郎の兄弟なのかは明確には記されていませんでしたが、少なくとも”石井”と名乗る一族郎党が多々良氏の郎従として存在していたようです。

鵜羽山からの景色 下の谷戸は三軒谷

石井塚があるという鵜羽山とは、権現洞穴(上地図画像⑨)の裏山部分で、観音崎灯台がある辺りになります。本書の記述からは、その塚が現存するのか、土地開発で破壊されたのかを読み取ることはできませんでしたが、現地周辺は観光名所である灯台だけでなく、戦時中に旧日本軍が砲台を築くなど大規模な土地開発が行われているので、その石井塚が現存している可能性は低いのかもしれません。

関連記事:『観音寺と権現洞穴


三軒谷多々良氏館跡


『相模武士三浦党』に、三軒谷(上地図画像⑩)が多々良氏の館跡であろうと推測する『三浦古尋録』の記述が紹介されていました。三軒谷(上地図画像⑩)は、バス停や駐車場がある観音崎一帯の入口部分であるため、観音崎で最も人が多い場所と言えるでしょう。現地案内板には、地名の由来として「かつて三軒しか家がなかったので三軒家と呼ばれていた」とありました。昔は三軒家と表記していましたが、現在は三軒谷と云います。そしてこちらでも丘陵部は旧日本軍の砲台が築かれていたり、三軒谷園地として広大に削平されてしまっています。

三軒谷砲台跡

三軒谷のバスロータリー付近に横穴がポツンとありました。穴が浅すぎるので防空壕の類ではないのは明らかです。なんでしょうコレ。多々良氏館跡の候補地だけにとても気になります。古墳時代横穴墓の高棺座タイプがとてつもなく風化してしまった跡のようにもみえますがいかがでしょう。

謎の横穴

霊地腰越


鎌倉遺構探索で”腰越”といえば、源義経の腰越状で有名な江の島からも近い腰越を真っ先に思い浮かべますが、鴨居にも腰越(上地図画像⑥)があります。現地案内板では、こちら鴨居腰越の地名の由来を「鴨居港方面から観音寺が亀崎半島のふもと(腰)を越えたところ」と説明していました。鎌倉の腰越の名の由来とは少し異なるようです。

腰越

近世にて会津藩が腰越に陣屋を置きました。陣屋を建てたとき、”無生の入”と呼ばれる土地から五輪・骨・刀などが出土したため、ここを多々良一族の墓所だと考える向きもあります。またその会津藩士の墓がある場所を三昧堂(さめど)と云います。ところで、安国論寺の手前にある橋を三枚橋と云い、三昧から転訛したと考えられています。鎌倉遺構探索の『名越坂』によれば、「三昧とは三昧寂光の意で涅槃(悟りの境地・死)の別称である」とあるので、三昧堂三昧田という字名が残るここ腰越は、昔から鴨居の墓地・霊地として活用されてきたのでしょう。

三昧堂 会津藩士の墓

中世以前の城郭上の台


西徳寺(上地図画像③)の裏山となる上の台②では、中世以前の城郭にみられる集合墳墓が発見されています。その他、和田義盛に関連する和田地蔵、そして髭剃塚と呼ばれる塚状地形が西徳寺に残されています。残念ながら上の台は大々的な土地開発によって旧態が失われています。今となっては詳しいことはわかりません。

西徳寺の裏山

関連記事:『和田地蔵と髭剃塚


三浦氏版浦賀城


『相模武士三浦党』に『浦賀誌録』の興味深い記述が載せられています。「大室に不動堂があり、本尊は多々良氏の守護仏と伝え、背後の城山は多々良四郎明宗の柵(城)であった」とのことです。城山は浦賀城のある丘陵を指します。そして大室とは、浦賀城の東側にあった船蔵だった場所です。後北条氏の城かと思われていた浦賀城ですが、やはりあれだけの物件、既に三浦一族が城郭として用いていたようです。ちなみに大室の不動堂が現存するのかは不明です。

多々良四朗明宗の柵だった浦賀城跡

関連記事:『浦賀城跡』


多々良氏館跡を探せ!


とここまで鴨居に関する情報を挙げてきましたが、次は鴨居の地を領していた多々良氏の館がどこにあったのか、気になるところではないでしょうか。ということで、下画像はこの記事でこれまでに取り上げた情報をまとめた候補地一覧です。

Google map 鴨居
①大室 ②上の台 ③腰越 ④三軒谷

鎌倉遺構探索としては、上の台周辺が候補地として最も可能性が高いと考えます。多々良義春が勧請したと伝える八幡神社付近が妥当でしょうか。八幡神社付近には、鴨居の鎮守であった須賀神社があったと云われています。また古東海道が小原台という鴨居のすぐ上にある地域を通過して走水に至るということからも、上の台周辺が外部から鴨居に進入する交通の要衝だったのではないかと考えました。

鴨居八幡神社から

その後の多々良氏


『浦賀誌録』に、千葉県南房総市富浦町にある多田良の小字大武佐に多々良氏の子孫がいると記されているそうです。また、三郎重春の孫の悪禅師重範が「越後国住人上寺」と、越後でその存在が記録されています。そしてその重範が承久の乱後に紀伊国へ渡り、重範の三人の子がそれぞれ野上・牲川・江川という苗字を名乗ったとありました。以前に『房総・紀伊半島の類似点と三浦一族』という記事を作成しましたが、佐原氏や和田氏といい、三浦宗家が滅びる以前から一族は色々な場所に散っていたようですね。

参考資料:○『相模武士〈2〉三浦党』湯山 学○『相模三浦一族とその周辺史』鈴木かほる○『三浦半島の史跡みち』鈴木かほる○『横須賀こども風土記』上杉孝良・田辺悟・辻井善弥



カテゴリー 探索記事(エリア別 横須賀
記事作成  2016年7月20日

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