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大磯の城郭

2018/04/20

城郭 大磯

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〈大磯〉の城郭



大磯にある城郭として知られているのが、住吉要害・高麗山・王城山・小磯城の四箇所です。小磯城は長尾景春(1443~1514年)が築城し、太田道灌によって落とされたと伝わっており、現在は大磯城山公園として整備されています。そして『神奈川中世城郭図鑑』によれば、住吉要害・高麗山城・王城山城の三箇所がどうやら単体の城郭ではなく、連動していたようで、伊勢宗瑞(1432~1519年)が山内・扇谷の上杉連合と対峙するときに城郭として構えたようです。

Google map 大磯
①住吉要害 ②高麗山 ③王城山 ④小磯城

ということで、今回は伊勢宗瑞が構えた住吉要害・高麗山・王城山の城郭三点セットを中心にスポットを当ててみました。

大磯の城郭


高麗山を詰めの城とし、王城山は直下に通っていた東海道を押さえ、住吉要害は東海道とは別の街道を押さえる役割があったと考えられています。伊豆から小田原まで領土を広げてきた伊勢宗瑞がこのとき本格的に相模国中心部まで侵入を始めました。扇谷家の上杉朝良は伊勢宗瑞と対抗するため山内家と和睦・連携し、配下の三浦道寸義同が住吉要害・高麗山城を撃破したことにより、伊勢宗瑞は一時的に小田原まで後退することになります。

Google map 大磯
①住吉要害 ②高麗山城 ③王城山城 ④花水川 ⑤JR大磯駅 ⑥千畳敷(湘南平)

住吉之古要害


高麗山の北側に虎御前の庵があった伝承地があります。山下長者屋敷として周知されており、伊勢宗瑞が取り立てた「住吉之古要害」の地と考えられています。何の変哲もない住宅街となっていますが、周囲に土塁の一部が残されています。こんな平地に陣を置いて大軍で攻め込まれたりでもしたらどうするのかと思ってしまいますが、当時では土塁・空堀が全周していたようです。また、なぜこの地が「古要害」と呼ばれているのかというと、永享十二年(1440)の結城合戦で上杉持朝が高麗寺の下徳宣に陣を置いたと『鎌倉大草子』に記されているんだそうです。つまり伊勢宗瑞が陣を置く以前から要害となっていたことになります

Google map 住吉要害
①土塁 ②伝虎御前庵跡 ③八幡神社 ④土塁 ⑤水路

南から進入すると、民家の一画に残された土塁(上地図画像①)に突き当り、そのまま道なりに進むとクランク状区画がこの短い距離に二回も登場します。また西側にある水路⑤は、この地に伝わる歴史からも、堀の名残りでしょうか。

八幡神社

この地に鎮座する八幡神社は、弘安年間(1276~87)の開創と伝わっています。由縁に応永二年(1390)に住吉社を摂社として祀ったとあったので、これが住吉要害の名の由来なのかもしれません。また虎御前の庵跡と伝わる地には五輪塔などの中世のものらしき石造物が残されています。

虎御前庵跡にある石造物

住吉城は住吉城じゃなかった!?


三浦道寸義同が岡崎城を落とされ、住吉城に拠り、またこれも伊勢宗瑞に落とされ後退したという、この一連の歴史に登場する住吉城といえば、鎌倉(厳密には逗子市)にある住吉城ですよね。しかし、『神奈川中世城郭図鑑』によれば、この住吉城とは、鎌倉の住吉城ではなく、ここ住吉要害である可能性が高いとありました。同書では鎌倉の住吉城は街道を封鎖するための臨時的な施設に過ぎないと評しています。事の真偽は置いといて、今さら住吉城が城じゃないって言われてもね、困りますね、”くらやみやぐら”とかあの楽しかった思い出が・・。

王城山城


さて、場所を変えて今度は大磯丘陵の海側、王城山城です。こちらは駅からも近く徒歩で向かえます。標高83.5mと低い山ですが、化粧坂や鎌倉街道が直下に通っていたこと、そして山腹には釜口古墳という有名な横穴石室が存在するなど、色んな意味でなかなか興味深い場所です。

Google map 王城山城
①王城山頂部平場 ②帯状平場 ③安田不動産大磯寮 ④釜口古墳

進入経路は上地図画像③の安田不動産大磯寮と④釜口古墳前面通りから行く二箇所となります。ちなみに安田不動産大磯寮から登っていくと、謎の石像仏群が尾根道に散在しています。神社かお寺でもあったのかと大磯観光案内所で尋ねてみましたが、そんなことはないと軽く否定されました。高麗山が修験道の聖地でもあったので、こちら王城山でも何かしらその影響を受けたのかもしれません。

王城山に散在する石像仏群
王城山に散在する石像仏群

頂部では曲輪と思えるような平場が広がっていますが、配水池が施されている他、明治天皇観漁の碑というものが設置されています。近現代で随分と整備されてしまっているようです。但し、頂部平場を取り巻くように帯状曲輪らしき造作がみられます。堀切などの目立った造作はみられませんが、上記したように、王城山は低山なので、直下を通る東海道に対して即座に対応することが大きな目的だったのかもしれません。

王城山頂部平場直下の尾根道
王城山遠景

高麗山城


さて、それでは、大磯の城郭三点セットの詰めの城、高麗山城です。ご存知、高来神社の裏山で太古から高麗権現が鎮座する霊山・神域です。

高麗山

高麗山城は寺域(当時は高麗寺)を城郭として転用したケースとなります。頂部までの登頂路(女坂)は古代からあった道筋だと思われるので、城郭を見出すことは困難かと思われます。しかし頂部平場から千畳敷(湘南平)に向かう尾根道に三箇所の堀切を確認することができます。

最も大きい堀切を上から見た図
高麗山頂部平場手前の堀切

頂部平場にはかつて高麗権現社が祀られていました。地形形状に怪しい箇所があったとしてもそれはきっと社殿の名残りでしょう。争乱によって白山社や毘沙門三重塔などが焼失したと高来神社の縁起にありましたが、これらは近世の建立だと『おおいその歴史』にありました。ちょっとこの辺りよくわかりません。

頂部平場

花水川


高麗山の東側を流れる花水川は両者が争う際の境界線となっていたようです。その花水川からは見事なまでのアングルで大山を望むことができます。大山(伊勢原市)方面には、三浦道寸義同がいた岡崎城、そして扇谷上杉家の糟屋館、丸山城、七沢城などがありました。それにしても、この威風堂々とした大山、この山を背にする者、それはまるで神のようではありませんか。虎の威を借る狐ではありませんが、伊勢宗瑞も神の威を借るつもりで高麗山に陣を置いたのかもしれませんね。

花水川から見た大山

大磯の史跡地図


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