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北条氏は熱海から始まった!

2019/10/07

熱海 北条氏

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北条氏は熱海から始まった!


北条氏は熱海から始まった!

北条氏は熱海から始まった一族なんです!皆さんご存じでしたか、もちろん厳密に言えば、北条氏の北条は、伊豆韮山の北条の地に因む苗字なので、韮山から北条家が起こったとするべきなんですが、北条氏が韮山の地に至る一つ前の世代が熱海に拠していたのです。ということで今回は、熱海にいた北条氏の先祖に焦点を当ててみました!

熱海にいた北条氏


上総介平直方の子・聖範が伊豆山権現の僧侶として熱海に住し、阿多美禅師と呼ばれていました。そしてここからは系図に諸説あるものの、『熱海市史』の見解によれば、聖範の孫・時家の頃、一族が熱海から韮山北条へ移り住み、北条氏を名乗ったと考えられています。一方で聖範の曽孫・時方が片平(片平里)に住み、和田四郎大夫を称します。片平は現在の熱海・和田町の辺りです。ですから北条氏一族は、当初は熱海(当時は阿多美)氏や和田氏を名乗っていたことになります。

和田里の鎮守 今宮神社

ここで、細川重男著『鎌倉北条氏の興亡』を改めて読み返してみると、少し系図の解釈が異なります。以下の画像は、その細川先生が最も統合性のとれた系図の解釈としたものです。

北条氏系図 『鎌倉北条氏の興亡』を参考に作成

『熱海市史』が聖範の曽孫とした和田四郎大夫時方が、こちらでは聖範の子に当たります。系図には各種あるため、どの系図を採用するかはその専門家のセンス次第となるようです。ひとまず細川先生の説では、聖範の子の時方が和田四郎大夫を名乗るので、この人物が熱海の和田町辺りに拠していた人物にあたります。そして時方、もしくは時兼・時家・時綱兄弟の頃、韮山北条の地に一族が進出し、政子の父で初代執権の時政にいたります。

こうして改めて北条氏系図を確認すると、時政って結構イイ血筋じゃないのかと思ってしまいますが、あくまでも北条氏のなかでも庶流だったとのことです。また系図を見てわかるように、和田四郎大夫時方から一族の通字に「時」が使用されはじめ、それ以降は「方」がなくなります。

和田八幡神社
和田里からの景色

頼朝ライン地区と北条氏


熱海の地誌・郷土資料には、これら聖範の一族は、多賀や浮橋の地とも関わりがあったと記されていることからも、韮山の北条氏邸から浮橋・多賀、そして熱海の和田と、伊豆~鎌倉間を往来する頼朝ラインと呼ばれる古道が通る地区は、ほぼ北条氏とその一族、もしくは同盟関係にある家が治めていたのかもしれません。

細川重男著『鎌倉北条氏の興亡』では「大夫を名乗ったり、北条介を称した者もあったようだから、直方から時政にいたる五代の間に伊豆国の在庁官人ぐらいは排出していたかもしれない。」とありました。時政はあくまでも庶流ではあったものの、一族全体でみると、そこそこ大きな勢力だったようにも思えてきます。

Google map 伊豆
①韮山北条氏邸 ②浮橋・山伏峠 ③多賀神社 ④頼朝の一杯水 ⑤和田今宮神社 ⑥伊豆山神社
頼朝ライン 伊豆~鎌倉間を往来する鎌倉古道ルート
※関連記事『熱海・多賀 頼朝ライン・ウォーキングコース


和田里の鎮守である今宮神社に訪れたとき、坂を登った山の中腹のような地域であるにもかかわらず、街が形成されていたことに驚きました。平安末期頃から和田四郎大夫などの北条氏の先祖が和田里周辺を開発していた歴史が下地になっていたからなのかもしれません。

今宮神社周辺

北条氏四郎嫡男説


最後に、系図を見てとても気になることがありました。それは嫡子の多くが四郎を名乗っていることです。詳しい人はこの時点でピンとくると思いますが、そう、北条氏四郎嫡男説です。

初代執権の北条四郎時政、二代執権の小四郎義時、さらには義時の正室の子が四郎政村と、北条氏は四郎が嫡流を継ぐのではないかという説が確か奥富先生の著書にあったと思います。さらには和田四郎大夫時方など、時政から遡ると、特に四郎が嫡男であったのであろう雰囲気が顕著に伝わってきます。

北条氏が和田氏を称していた時代でも、四郎が家督を継いでいた訳ですから、偶然に次ぐ偶然で四郎が当主になっていたという説はちょっと受け入れられません。やはり北条氏は、四郎が嫡男だったのではないでしょうか。ということはまさか、三代執権の泰時は、本来は継承者ではなく、四郎政村から家督を簒奪した側であったことが真実だっりでもしたら、面白い話ですね。

はてさて、真相はいかに、と考えると興味深いのですが、そもそも義時が江間氏という分家の地位にあり、嫡男でもなんでもなかったという説もあります。嫡男が四郎と名付けられていたのは、時政の時代までと考えるのが妥当なのかもしれません。

錦ヶ浦から見た多賀方面

あとがき


源頼朝が北条政子と伊豆山近辺で逢瀬をしていたという逸話があります。熱海の歴史に詳しい地元のご老公が頼朝ラインを「頼朝が女のために使っていた道」と言っていたのを思い出しました。確かに、上記したように頼朝ラインと呼ばれる鎌倉古道が北条一族によっておさえられていたのであれば、韮山から熱海まではある程度の安全が確保されていた訳ですから、意外に本当かもしれませんよね。

頼朝と政子が出会ったという逢初橋

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