2014年5月27日火曜日

伊豆北条の地


伊豆・韮山


頼朝が流人として蛭ヶ小島に流されていた頃、北条時政が一介の地方在地領主だった頃で『吾妻鏡』の最初の舞台となるのが伊豆・韮山です。『吾妻鏡』では、この辺りを「伊豆国北条郡」と記しています。韮山の中でも特に北条氏邸などがあった辺りを指しているのだと思われますが、現代語訳吾妻鏡などでは伊豆国田方郡北条とも記されています。

伊豆の国市
①下田街道 ②北条(韮山) ③三嶋 ④東海道箱根路 ⑤東海道足柄路

富士山の下に東海道が通っています。東海道を西から鎌倉方面に向かうと箱根路と足利路に分岐します。この東海道箱根路沿いに三嶋大社が所在し、ちょうどそこから伊豆の中央を南下する下田街道が通っています。伊豆・韮山の辺りは田方平野とも呼ばれ、下田街道沿いに位置します。東には多賀山地、西には静浦山地、南には天城山地がそびえています。海には面していませんが、下田街道と並行するように狩野川が流れています。山稜に囲まれなおかつ三嶋大社から道がず~っと伸びるこの様相。あたかも三嶋大社が鶴岡八幡宮で、下田街道が若宮大路みたいに思えてきます。


北条氏邸


北条時政が邸を構えていたのが韮山の西側にある守山と呼ばれる丘陵部一帯で、御所ノ内と呼ばれています。鎌倉の谷戸のように丘陵を背に多くの史跡が並んでいます。史跡はほぼ北条氏に関連したものです。

Google map 御所ノ内エリア
①願成就院 ②守山八幡宮 ③光照寺 ④成福寺 ⑤堀越公方御所跡 ⑥北条氏邸跡・円成寺跡 ⑦真珠院跡 ⑧真珠院 ⑨子神社 ⑩満願寺跡 ⑪信光寺

北条時政・政子・義時がいた⑥北条氏邸跡と丘陵を挟んだ向こう側に時政が建立した①願成就院があります。③の光照寺は詳細不明ながら吾妻鏡にも記されている「頼朝亭」跡、もしくは願成就院の子院ではないかと推測されています。④成福寺はどう表現したらいいのか微妙ですが、鎌倉の小袋にある成福寺と同一です。複雑な由縁が関係しています。また、⑥の北条氏邸跡は、幕府滅亡後に北条高時の母が一族を連れ円成寺を建立し住していました。⑩の満願寺も願成就院に関連したものと考えられています。

願成就院
北条氏邸跡・円成寺跡
推定頼朝亭跡 光照寺

そして中世末期では、鎌倉に入れずこの地に留まった堀越公方(足利政知)邸があったとされています。発掘調査の結果、建物跡だけでなく、東日本ではあまり例のない京風の池跡が発見されているので、公方様のイメージ通り豪華な御所であった可能性が高いようです。

堀越公方御所跡 中央奥に見えるのは富士山


韮山の旧道


『吾妻鏡』には「牛鍬大路」「蛭嶋通り」「天満坂」などの道の名が登場します。現代語訳吾妻鏡の注釈に、牛鍬大路は三嶋大社と伊豆国田方郡北条を結ぶ大道、蛭嶋通りは蛭嶋を通る牛鍬大路の脇道とありました。天満坂に関しては注釈がありませんでした。牛鍬大路の「三嶋大社と伊豆国田方郡北条を結ぶ大道」という表現からは、これはつまり中世の下田街道と解釈していいのでしょうか。また、原木に残る牛鍬という字名が遺称地とあったので、残念ながらこの道筋は残されていないようです。ということは、蛭嶋通りも同じくこどこかに埋もれているものと思われます。そして天満坂に関しては、吾妻鏡の記述からは山木判官邸の近く、もしくは山木判官邸に通じる道筋のようです。

Google map 伊豆韮山
①北条氏邸跡 ②伊豆長岡駅 ③韮山駅 ④原木駅 ⑤蛭ヶ小島 ⑥山木判官邸跡

上地図画像の②③④の駅を線で結ぶと伊豆箱根駿豆線となります。原木駅の近くに牛鍬という遺称地があるとのことなので、蛭ヶ小島との位置関係からも現在の駿豆線辺りがその牛鍬大路・蛭嶋通りだったのかもしれません。ただ、困ったことに、現在北条氏邸の西に流れている狩野川は、中世ではもっと東側に流れていた、もしくは東側にも支流があったそうなので、厳密な地形解明は難しいようです。また、蛭ヶ小島も、頼朝邸の痕跡が見つかったという訳ではなく、碑を立てるうえで、土地取得上の便宜が良かったからという理由であの場所が蛭ヶ小島となったそうです。しかも頼朝がいた頃の蛭ヶ小島とは、狩野川の支流に挟まれた中州のような場所だったそうです。ですからこちらもその痕跡を探るのは難しいようです。

守山頂部から見た韮山
頼朝・政子像がある蛭ヶ小島
狩野川


韮山とその周辺


下地図画像は韮山及び周辺です。韮山をはじめ特に史跡が集中しているエリアを大きく4つに分けてみました。韮山の西側には北条氏邸や堀越公方邸があった御所ノ内エリア、東側には頼朝の配流の地となった蛭ヶ小島、その他山木判官邸跡や江川邸に韮山城跡など、史跡が特に集中しています。奈古谷(なごや)には、文覚・畠山国清・上杉憲顕などに関連した国清寺や毘沙門堂、そして江間から長岡にかけては北条氏に関連する北条寺・最明寺に、源頼政に関連する西琳寺、天野遠景に関連する東昌寺などが街道沿いに一直線に所在しています。鎌倉からこんなに離れているのにもの凄い史跡の数です。

Google map 伊豆韮山周辺
奈古谷
長岡の古奈から 中央奥に見える丘陵が守山
江間

下田街道と並行するように三島から修善寺に向かう伊豆箱根鉄道駿豆線の駅名に、大場(だいば)・伊豆仁田(いずにった)・牧之郷(まきのごう)などがあります。実際のところどういう地名の由来なのかはかわかりませんが、大場は大庭氏、伊豆仁田は新田氏、牧之郷は牧氏を連想してしまいます。


伊豆の遺構


鎌倉と密接な関係にあった伊豆韮山にどのような遺構が残されているのか興味深いところです。まずは何と言っても、伊豆にも鎌倉名物のやぐらがあるのか意識して史跡をめぐっていましたが、現地でやぐらのような掘り込みを2ヶ所で確認できました。

天野遠景の墓
岩谷観音

掘り込みが浅く簡素なもので、鎌倉のやぐらのセオリーからすれば、やぐらというより近世にて石塔を置くために施された造作に思えます。とっても微妙です。伊豆の有名な史跡をめぐって確認できたのがこれだけなので、伊豆にはやぐらの風習はなかったという結論に個人的に至りました。やぐらとはやはり鎌倉という狭い地域において墓所を何とか確保する苦肉の策だったと言えるのかもしれません。しかし横須賀や房総半島でもやぐらが確認されていることや、韮山の北条氏邸エリアで発掘されたかわらけが京風だったという事実からも、北条氏が鎌倉に拠点を移してからは、伊豆では鎌倉都心部の影響をあまり受けなかったと考えるべきなのかもしれません。

また韮山にある古墳時代横穴墓に行ってきましたが、こちらでは棺そのものや、遺体を安置するための掘り込みなど、鎌倉では見たことがない造作が残されていて驚きました。

北江間横穴群

そして石切り場跡がここ伊豆でもいくつかみられます。神武寺にあるような地下に巨大な空間があるもので、探検感を味わえる素敵な物件でしたが、奥が見えないというより底が見えないという危険な有り様で、また立入りを拒む造作に阻まれ中には入りませんでした。ちょっと心残りです。ちなみに伊豆韮山は鎌倉と同じく凝灰岩で形成された地層だとありました。地産の石で中世に作られたと思われる石塔は、鎌倉で見かけるものと同じような風化の度合いでした。

石切り場跡



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探索期間 2014年5月
記事作成 2014年5月27日

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