韮山城から眺めた富士山 |
伊豆・韮山
源頼朝が流人として蛭ヶ小島に流されていた頃、北条時政が一介の地方在地領主だった頃、『吾妻鏡』の最初の舞台となるのが伊豆・韮山です。『吾妻鏡』では、この辺りを「伊豆国北条」と記しています。韮山の中でも特に北条氏邸などがあった辺りを指しているのだと思われます。
伊豆の国市 ①下田街道 ②北条(韮山) ③三嶋 ④東海道箱根路 ⑤東海道足柄路 |
富士山の下に東海道が通っています。東海道を西から鎌倉方面に向かうと箱根路と足利路に分岐します。この東海道箱根路沿いに三嶋大社が所在し、ちょうどそこから伊豆の中央を南下する下田街道が通っています。伊豆・韮山の辺りは田方平野とも呼ばれ、下田街道沿いに位置します。東には多賀山地、西には静浦山地、南には天城山地がそびえています。海には面していませんが、下田街道と並行するように狩野川が流れています。
御所ノ内 北条氏邸跡
北条時政が邸を構えていたのが韮山の西側にある守山と呼ばれる丘陵部一帯で、御所ノ内と呼ばれています。鎌倉の谷戸のように丘陵を背に多くの史跡が並んでいます。史跡はほぼ北条氏に関連したものです。
国土地理院の地理院地図 ①成福寺 ②堀越御所跡 ③光照寺 ④北条氏邸・円成寺跡 ⑤守山八幡宮 ⑥願成就院 ⑦信光寺 ⑧真珠院 |
北条時政・政子・義時がいた④北条氏邸跡と丘陵を挟んだ向こう側に時政が建立した⑥願成就院があります。③の光照寺は詳細不明ながら吾妻鏡にも記されている「頼朝亭」跡、もしくは願成就院の子院ではないかと推測されています。また、④の北条氏邸跡は、幕府滅亡後に北条高時の母が一族を連れ円成寺を建立し住していました。
願成就院 |
北条氏邸・円成寺跡 |
成福寺 北条正宗らの墓 |
真珠院の五輪塔 |
そして中世末期では、鎌倉に入れずこの地に留まった堀越公方(足利政知)邸があったとされています。発掘調査の結果、建物跡だけでなく、東日本ではあまり例のない京風の池跡が発見されているので、公方様のイメージ通り豪華な御所であった可能性が高いようです。
堀越公方御所跡にある北条政子産湯の井戸 |
韮山の旧道・古道 山木合戦の経路
石橋山の合戦前に、源頼朝と北条時政らは山木判官を討ち滅ぼしています。そのとき頼朝と時政が北条氏邸から山木邸に向かう経路を話しあう場面が吾妻鏡に詳細に記されています。吉川弘文館現代語訳吾妻鏡より引用します。
北条時政「今日は三島社の神事があり、多くの人がやってきているので、きっと道は人であふれているでしょう。牛鍬大路を経由すると、行き来する人達に咎められてしまうので、蛭島通りを行くのがよいでしょう。」
源頼朝「思うところはその通りだ。しかし、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。それに蛭島通りでは騎馬で行くことができない。だから大道を用いなさい。」
『吾妻鏡』には「牛鍬大路」「蛭嶋通り」「天満坂」などの道の名が登場します。現代語訳吾妻鏡の注釈に、「牛鍬大路は三嶋大社と伊豆国田方郡北条を結ぶ大道」「蛭嶋通りは蛭嶋を通る牛鍬大路の脇道」とありました。
国土地理院の地理院地図 ①北条氏邸 ②蛭ヶ小島 ③山木判官邸 |
牛鍬大路の「三嶋大社と伊豆国田方郡北条を結ぶ大道」という表現からは、これはつまり中世の下田街道(地図画像の南北を走る赤い線)と解釈していいのでしょうか。
また、「蛭嶋通りは蛭嶋を通る牛鍬大路の脇道」とありますが、地図を見てのとおり、②蛭ヶ小島を通る道(南北に走る黄色い線)が現在も確認できます。
さらに天満坂に関しても、吾妻鏡の記述からは③山木判官邸の近く、もしくは山木判官邸に通じる道筋のようなのでこちらも山木判官邸に向かう道(東西に走る黄色い線)が確認できます。
守山から眺めた韮山 |
「えっ?頼朝と時政が話していたあの道が未だ残ってるの?」と感動しかけましたが、但し、困ったことに、現在北条氏邸の西に流れている狩野川は、中世ではもっと東側に流れていた、もしくは東側にも支流があったそうなので、厳密な地形解明は難しいようです。
また蛭ヶ小島も頼朝邸の痕跡が見つかったという訳ではなく、碑を立てるうえで、土地取得上の便宜が良かったからという理由であの場所が蛭ヶ小島となったそうです。しかも頼朝がいた頃の蛭ヶ小島とは、狩野川の支流に挟まれた中州のような場所だったそうです。ですからこちらもその痕跡を探るのは難しいようです。
蛭ヶ小島の頼朝・政子像 |
狩野川 |
伊豆にやぐらはなかった
伊豆にも鎌倉地方特有の葬送方式”やぐら”があるのかを意識して史跡をめぐっていましたが、現地でやぐらのような掘り込みを二か所で確認できました。天野遠景の墓と、伊豆の国市ではありませんが修善寺指月殿の裏山にあった岩屋観音です。
天野遠景の墓 |
岩谷観音 |
しかしこれらのやぐらは掘り込みが浅く簡素なもので、鎌倉のやぐらのセオリーからすれば、やぐらというより近世以降に石塔を置くために施されたような造作に近いと思えました。伊豆の有名な史跡をめぐって確認できたのがこれだけなので、伊豆にはやぐらの風習はなかったという結論に個人的に至りました。
房総半島や松島で大規模なやぐら群が存在します。それらは主に鶴岡八幡宮寺や鎌倉禅宗(臨済宗)寺院の所領であった関係性から、それらの地でもやぐらが造成されたと考えられているので、つまりこの例を伊豆に当てはめると、伊豆には鎌倉寺社と密接な関係にあった地域がなかったと考えられます。
0 件のコメント:
コメントを投稿