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三浦義村の系図と一族の生き残り・末裔

2021/10/16

系図 三浦義村

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〈三浦義村〉の系図と一族の生き残り・末裔


この記事では三浦氏の全盛期を築いた三浦義村を中心とした一族の系図と彼の子孫の行方を追ってみようと思います。

三浦氏系図と三浦義村


三浦氏は、康平六年(1063)に前九年合戦の功績として、平為通が三浦郡を獲得したことに始まります。為通から為継・義継・義明と家督が継がれその後は以下の図のようになります。興味深いことに、そして彼がどういう意図でこのようなことを言ったのかはわかりませんが、最後の三浦惣家当主である泰村は「義明以来の四代の家督として」という表現を使っていたことが吾妻鏡に記されています。

三浦氏系図 赤〇は惣家

三浦義村は、北条氏と姻戚関係を結び、同族の最大勢力和田義盛を北条氏と共に滅ぼし、その地位を築き上げてきました。承久元年(1219)には後にも先にも北条氏しか任官していない駿河守に任じられた他、承久の乱(1221)以降も所領を増やし日宋貿易に着手していました。

北条義時没後は烏帽子子の北条政村を支持するなど、北条氏の後継者問題にも大きな影響力を持っていたとされています。三浦氏の全盛期を築き上げ、延応元年(1239)に大往生でその生涯を閉じました。

三浦義村の系図と子孫


「兄弟が共に他門の宿老を超え、すでに正五位下となっている。その他の一族も多くが官位を持っており、さらに守護国数ヵ国、庄園数万町が我が一族の知行するところである。」



『吾妻鏡』宝治元年(1247)6月1日条にある三浦泰村の発言です。三浦一族がいかに権勢を誇っていたかが伝わってくる一文です。そんな一族の全盛を築いた義村から家督を受け継いだ泰村とその弟の光村が国司に就き、家村と氏村が式部大夫、資村・胤村が左衛門尉の地位にありました。

三浦義村の系図 赤〇は義村
黒×)承久の乱で滅亡 赤×)宝治合戦で滅亡 青×)宝治合戦その他

系図を見ると義村の子孫のほとんどの名に「村」の字が入っています。源氏一族から戴いた有難い三浦一族の偏諱である「義」の字が見当たりません。この頃はもう三浦一族ではなく義村一族と表現すべきなのかもしれません。

義村の兄弟には有綱(山口)・重澄(大河戸)・胤義・友澄(三戸)がいます。胤義と友澄は承久の乱にて後鳥羽側に与したため滅んでいます。しかし義村が胤義の子を引き取っていたようで、宝治合戦(1247年)ではその胤義の子らの多くが三浦方として殉死しています。

葉山町山口にある鎌倉期の五輪塔

宝治合戦で滅びた義村一族


そして以下は三浦一族が滅びた宝治合戦(1247年)にて自決もしくは討死にしたと吾妻鏡に記されている惣家の人物一覧です。せっかくなので人物の表記も吾妻鏡から引用しました。

若狭前司泰村と子の景村・駒石丸
能登前司光村と子の駒王丸
駿河式部三郎(駿河式部大夫家村の子)
駿河五郎左衛門尉資村
九郎重村
三浦又太郎式部大夫氏村と子の次郎・三郎
三浦三郎員村

その他駿河式部大夫家村が行方不明
その他駿河八郎左衛門尉胤村が囚人として捕らえられ出家

頼朝法華堂跡の丘陵にある三浦氏を供養する横穴

三浦義村の子孫の生き残り


宝治合戦(1247)にて三浦一族の多くが滅びましたが、以下に挙げる人物・一族らがその後も生き残っている様子がうかがえます。

美作三浦氏


上記したように、義村の子の家村が宝治合戦後に行方不明になっていると吾妻鏡に記されていましたが、その宝治合戦の際、家村は血統を伝えるよう諭され三河国へ逃れたと伝えられています。その後裔の正重が土肥大炊助利勝の妹を娶り土井姓として徳川将軍秀忠に仕え、その正重の子の正次のときにまた三浦に復姓しました。さらにその後裔の秋次が美作国勝山藩(岡山県真庭市)の初代藩主となり、明治維新のそのときまで三浦の名跡を伝えています。

三浦良賢律師


『吾妻鏡』弘長元年(1261)6月22日条に、三浦良賢律師なる人物が同族の駿河八郎入道と根本尼らと共に謀反の疑いがあるとして亀谷石切谷で捕らえられたとあります。この三浦良賢律師なる人物とは、義村の子で泰村の弟だと吾妻鏡にあるので、宝治合戦で捕らえられ出家したとされる胤村が最も該当するかと思われますが一切不明です。

三浦良賢禅師は伊豆山権現で僧籍に入っていた

林三浦氏と駿河三浦氏


義村の孫で朝村の子の氏村は系図では林式部大夫・林駿河又太郎などと記されていることから、相模国林郷(横須賀市林)を所領としていたと考えられています。そして建武元年(1334)には新政権から河内国の地頭職に補任された三浦林氏を名乗る三浦一族が存在します。また駿河国今川氏に属した三浦氏は朝村の子孫だといわれています。

横須賀市林にある塔の石

まとめ


強大な権勢を誇った三浦一族でしたが、宝治合戦にてその多くが失われてしまいました。三浦氏惣家の旧跡を引き継いだのは、義村の娘の矢部禅尼と三浦佐原盛連の子孫です。

『吾妻鏡』宝治元年(1247)6月14日条によれば、家村の後家に妾の子も含む3人の幼児がいると記されています。また三浦駿河三郎員村の子息の小童が河津伊豆入道に預けられたとあります。朝村の系統が横須賀市林や駿河などで生き残っていたと伝えられるように、系図に記されていない一族も多くいると思われます。

参考資料

鈴木かほる著『相模三浦一族とその周辺史』
高橋秀樹著 『三浦一族の中世』
湯山学著  『相模武士―全系譜とその史蹟〈2〉』
湯山学著  『相模武士―全系譜とその史蹟〈5〉』
五味文彦他編『現代語訳吾妻鏡〈12〉』
横須賀市編 『新横須賀市史』

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