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覚海円成尼 【最後の得宗執権の母】

2021/10/10

覚海円成尼

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覚海円成尼


最後の得宗執権北条高時の母が覚海円成尼(かくかいえんじょうに)です。元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めにより、その栄華が一瞬にして灰燼に帰し、鎌倉から一転、伊豆韮山で晩年を過ごしたとされています。

この記事では、その覚海円成尼の生涯と、彼女に所縁のある寺院などの史跡・旧跡をまとめてみました。

覚海円成尼

覚海円成尼

実名 :不詳
出自 :安達氏
生年 :不詳
没年 :興国六年・康永四年(1345)

覚海円成尼(以下円成尼)は、安達泰宗の娘で執権北条貞時に嫁ぎ、執権高時とその弟・泰家を産んでいます。実名は不詳で山内禅尼とも呼ばれていました。元応三年(1319)には土佐に遁れていた夢窓疎石を鎌倉に拝請するなど、権勢家としても知られ、『禅居集』に「相守夫人円成第檀度達法者他」とその外護の徳を讃えられていました。

しかし元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めにより、鎌倉幕府が滅亡すると、残された子女を連れ伊豆韮山の北条氏邸跡に移り住むことになりました。韮山では円成寺を建立し、寡婦らと共に一族の菩提を弔っていたと伝えられています。

円成寺跡

後醍醐天皇が「左兵衛督(足利尊氏)」に対し、円成尼に「伊豆国北条宅」と上総国畔蒜庄を安堵するよう命じて発給された安堵状が残されています。

また暦応二年(1339)の足利直義寄進状案によれば、円城寺は北条貞時の妻である円成が建立した寺であること。そして元弘の鎌倉攻めで敗れた人々を弔うため北条五箇郷や駿河沢田郷・沓屋郷が寄進されたことなどが記されています。

円成尼と夢窓疎石


以下は伊豆時代の円成尼と夢窓疎石が交わしたやり取りです。円成尼は夢窓疎石に深く帰依していました。文章からは得宗家の女性とは思えぬ弱々しさが感じられます。上記したように足利尊氏などから扶持を得ていたとはいえ、心情的にも苦しかったのであろう様子が伝わってきます。


「円成尼から夢窓疎石へ」 竹貫元勝他編『夢窓疎石』より引用。
「あなたは理想の隠れ家を求めて、山から山へと遍歴しておいでですが、その旅をお止めになったらいかがでしょうか。世を背かずとても、世の中の辛さ、人間の生き難さがわかっていさえすれば、どんな場所でも修行ができるのではありませんか。世を背かなかったとしても、人生は夢であり、はかないものですから。」



「夢窓疎石から円成尼へ」 竹貫元勝他編『夢窓疎石』より引用。
「庵を結ぶ山がないのならば、あなたは山のような場所を見つけてそこに隠れなさい。」


円成尼の史跡

無量寺


鎌倉歴史文化交流館のある辺りを無量寺ヶ谷といいます。往時では無量寺(無量寿院)というお寺があったことに因む名です。秋田城介義景十三年忌仏事がここで行われていることなどから、安達氏に関する寺院・屋敷地であったと考えられています。弘安八年(1285)の霜月騒動により、無量寺は安達氏の失脚と共に焼失し廃されたようです。

無量寺跡

円成尼の出自が安達氏なので彼女がこの辺りで生まれ育ったと考えるむきもあるようですが、あくまでも想像の範疇となります。

無量寺は瑞泉寺に代表される臨池伽藍の寺として、往時では丘陵部造作の前面に池が施され、鑓水があったことが発掘調査の結果からわかっています。

また『鎌倉廃寺辞典』に、「『金沢文庫研究紀要』一所収『鎌倉鷲峰法流伝来記』に「甘縄無量寿院今ノ万寿寺是ナリ」とみえる」とあります。 長谷にも万寿寺というお寺があったので、何かの勘違いかもしれませんが、この資料から少なくとも無量寿院(無量寺)の跡地に何かしらまた寺院が建てられたのではないかと考えられます。

安達氏の菩提寺の跡地にまた寺院を建てたのであれば、それは安達氏の菩提を弔うための寺院であったのではないでしょうか。つまり円成尼が関わっていたのかもしれません。

鎌倉歴史文化交流館【無量寺跡】

鎌倉歴史文化交流館【無量寺跡】

鎌倉歴史文化交流館は、「鎌倉の歴史的遺産・文化的遺産を学べる」をテーマにした展示施設で、2017年5月にオープンしました。同施設が所在する場所は鎌倉時代に安達氏の菩提寺・無量寺(無量寿院)があったことでも知られています。ですから展示施設だけでなく...

山ノ内


円成尼は山内禅尼とも呼ばれていました。北条貞時の治世に鎌倉に訪れた後深草院二条が「山ノ内という相模殿の山荘」と『とはずがたり』に書き残しています。したがって山ノ内に相模殿(北条貞時)の山荘があったことがわかります。明月院のある明月谷に北条時頼亭があったので、得宗家代々の山荘・屋敷地になっていたのでしょう。ですから円成尼は明月谷に住んでいたはずです。だから山内禅尼と呼ばれたのでしょう。


後深草院二条と鎌倉

後深草院二条と鎌倉

『とはずがたり』の著者として知られる後深草院二条は、久我大納言源雅忠の娘で実名は不詳です。正嘉二年(1258)の生まれで没年は伝わっていませんが、少なくとも50歳頃まで『とはずがたり』を記していた事がわかっています。『とはずがたり』の前半は著者である…

建長寺華厳塔


円成尼は元亨三年(1323)の貞時十三年忌に建長寺華厳塔を建立しています。円成尼が建立した華厳塔と同一のものかわかりませんが、『建長寺伝延宝図』にある建長寺旧参道にその華厳塔が描かれています。下画像は建長寺にある華厳塔の模造品です。

華厳塔

建長寺旧参道

建長寺旧参道

建長寺中心伽藍を抜け、半僧坊に向う現在の参道は新道であり、河村瑞賢の墓がある丘陵部尾根が半僧坊(勝上獄)へと向う昔の道だったようです。実際にも明治初期まであったとされる雲外庵が現在の参道位置に所在していたため、確かにあの場所を通り抜けること...

東慶寺梵鐘


元徳四年/元弘二年(1332)年に完成した東慶寺の梵鐘は円成尼が檀那、つまり円成尼が寄進したものです。しかし何故か静岡県韮山町の本立寺にあります。小田原北条氏の時代に持ち出されてしまった説が有力です。

本立寺

円成寺


鎌倉から伊豆韮山に移住した円成尼は、守山丘陵の一画にあった北条氏邸跡に円成寺を建立します。お寺は円成尼没後に一時的に寺勢を失いますが、14世紀末から伊豆国守護の山内上杉氏の庇護を受け、伊豆国清寺の末寺となり山内家の息女が代々住持を務め勢いを盛り返していました。しかし15世紀後半の山内家の衰退と共にお寺もその頃に廃絶したと考えられています。

円成寺跡にみられる溝

発掘調査の結果、円成寺も臨池伽藍の寺であったことがわかっています。これも円成尼が関わっているのかと当初は思いましたが、その頃に円成尼がそのような優雅な庭園造作を行えたとは思えないので、これは山内家の息女が住持を務めてからの遺構ではないかと個人的には思います。

円成尼は興国六年・康永四年(1345)にこの地で亡くなりました。

北条氏邸跡・円成寺跡

北条氏邸跡・円成寺跡

伊豆の国市にある守山と呼ばれる丘陵一画における発掘調査の結果、鎌倉期から南北朝期にかけた何重もの遺構・遺物が発掘されました。文献・資料・伝承などでしかその存在を知られていなかった北条氏邸と円成寺がこの地にあったことが改めて証明されました。伊豆...


あとがき


一瞬にして全てを失った彼女の心情は計り知れないものがあります。そんな彼女のことを思うと、何よりも生活レベルを落として生きていくのがかなり厳しかったのではないかと個人的には思いました。

東慶寺誌に、東勝寺が陥落すると、その報せを東慶寺で聞いた円成尼は、円覚寺に入り自決したと記されていました。たぶんこれは作り話かなんかだと思います。よく人気の歴史上人物が「本当はその後も生き残っていた」というお伽話が後世にて創作されていますが、円成尼の場合、「あのとき一族一門と共にこの世を去っていれば、辛い余生を過ごさずに済んだのに」ということで、生存伝説とは逆の伝説が生まれたのかもしれないと思いました。

参考資料


貫達人他編『鎌倉廃寺辞典』
井上禅定著『松ヶ岡東慶寺誌』
池谷初恵著『鎌倉幕府草創の地』
伊豆の国市教育委員会編『願成就院跡』
韮山町教育委員会編『史跡北条氏邸跡発掘調査報告Ⅰ』
竹貫元勝他編『夢窓疎石』

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