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葛原岡・源氏山【鎌倉】ハイキングコース

2021/11/14

ハイキングコース 鎌倉市

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葛原岡・源氏山【鎌倉】ハイキングコース


多くの人に親しまれ、そして誰もが知っている葛原岡・源氏山ハイキングコースを、歴史的な解説を踏まえて見どころなどを改めてご紹介致します。

基本情報

コース名  :葛原岡・源氏山ハイキングコース
カテゴリー :ハイキング
出発地点  :浄智寺山門
到着地点  :源氏山源頼朝像広場
最低標高点 :20m
最高標高点 :93m
距離    :約1.6km
所要時間  :大よそ30分
体力消耗度 :1/5

国土地理院の地理院地図
①浄智寺山門 ②天柱峰 ③大堀割 ④葛原岡神社 ⑤化粧坂分岐 ⑥化粧坂 ⑦源頼朝像広場 ⑧源氏山

北鎌倉駅から歩いて数分の浄智寺から丘陵を登り尾根に出た時点でもうそれほど高低差はありません。お子さんからお年寄りまで誰もが難なく楽しめるハイキングコースです。

葛原岡ハイキングコースは親しみやすい一方で、鎌倉の歴史を学ぶうえでも重要な史跡・遺構が随所に所在しています。単に自然を満喫するのもいいと思いますが、歴史を知るとその道や場所がまた違って見えてくるから不思議です。今回はハイキングコースを進みながら葛原岡ハイキングコースにある鎌倉の歴史をかまさぎ君と一緒に勉強しながら進んでみましょう。

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かまさぎ君
よろしくね!

浄智寺裏山


浄智寺を通り過ぎて奥に向かうと葛原岡ハイキングコースとなります。浄智寺は鎌倉五山(中世の禅寺格付け)の第四位に列した名刹中の名刹なので往時では多くの塔頭・支院が周辺に所在していました。ハイキングコースに向かう道沿いはそれら浄智寺に関連する寺院跡の痕跡が紛れているかもしれません。

浄智寺
浄智寺周辺の丘陵部造作
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かまさぎ君
「ここに何か建物があったのかもしれへん」といって地形を観察するのも意外に面白いんやで

浄智寺裏から丘陵部を登りつめると何故か門のような造作が現れます。大仏坂や名越坂のように大きめな石が道に埋もれています。城郭と言ったら大げさですが、この造作には侵入者の通行を妨げる意図を感じます。もしくは尾根を断ち切るための堀切に見えないこともありません。もしかしたら昔はここが出入口だったのかもしれませんね。

門状の造作

その門状の向こうには道が続いています。ここを下りて行くと往時では清涼寺ヶ谷と呼ばれた場所に出ます。中世に新清涼寺という律宗のお寺があったことに因む名です。急にここで何故か無性に海蔵寺に行きたくなった人には便利な道です。すぐ近くに出ます。足下があまり良くないので気を付けてください。

清涼寺ヶ谷へ下りて行く道
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かまさぎ君
西大寺の叡尊(えいぞん)さんが鎌倉に来たときに泊まったっちゅう釈迦堂が、この新清涼寺にあった釈迦堂だと言われとるんやで

それでは、ハイキングコースを進みましょう。素敵な尾根道を行きます。自然界の曲線ってキレイですよね。

葛原岡ハイキングコース

天柱峰


しばらくして天柱峰の碑が現れます。これは浄智寺・建長寺などにも住した竺僊梵僊(じくせんぼんせん)和尚の顕彰碑です。和尚のお気に入りの場所で書物などを記していたそうです。現状からするとそんな場所には思えませんけどね。

天柱峰
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かまうし君
あの人気サイト鎌倉遺構探索の記事『建長寺歴代住持』によれば、竺僊梵僊和尚は中国から来た渡来僧だとあるね
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かまさぎ君
よう自分で「あの人気サイト」とか言わすなぁ・・

瓜ヶ谷やぐら群


天柱峰から少し進んだ辺りに案内板が現れます。この案内板が示さない後ろにある道を進むと瓜ヶ谷やぐら群に行くことが出来ます。季節によっては藪に覆われそうな小径の道ですが、そんなに遠くありません。興味のある方は寄り道してみてはいかがでしょうか。地蔵座像が中央に鎮座するちょっと怖い感じもする雰囲気のあるやぐらです。

この案内板の奥にある道を進む
瓜ヶ谷やぐら群
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かまさぎ君
はっ! ・・もう、誰かいるのかと思うたやん! これはちょっと怖いかも、ちょっとしたお化け屋敷やな
瓜ヶ谷やぐら群

瓜ヶ谷やぐら群

地蔵座像が中央に鎮座する特徴的なやぐらを含む瓜ヶ谷やぐら群は、鎌倉でも人気の葛原岡ハイキングコースから少しだけ外れたところにあるのですが、多くの人が行き交うハイキングコースとはまた空気や雰囲気が全く異なる場所です。そしてこちらのやぐら群には多...

石切りの痕跡


瓜ヶ谷やぐら群分岐から進むと何やら底面が削られている箇所が現れます。足を引っかけるのにちょうど良いので、そのために削られたのかもしれませんが、どのみちこのような造作は石切り職人さんの仕業でしょう。実際にも周辺の清涼寺ヶ谷や海蔵寺の丘陵部崖面に石切りの痕跡が確認できます。石切り職人さんたちは独自の文字を使っていたようなので、どこかに刻まれていないか探してみるのも面白いかもしれませんよ。

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かまさぎ君
言っておいてなんやけど、このハイキングコースには石切り職人さんの文字は見当たらんで、他の石切り場跡で見つけてみてや

蛇居ヶ谷の大堀切


この辺りから地形に起伏が現れ始ます。少し登ってまた下りていく状況のそのとき、蛇居ヶ谷の大堀切と呼ばれるとんでもない大きさの掘割状地形が目の前を横切っています。ピクニック気分で歩いているだけだと気付きにくいかもしれませんが、ハイキングコースはこの凹んだ掘割状を渡るための土橋を渡って行きます。

大堀切

はっきりとしたことはわかっていませんが、(壮大な空堀に見える)切通しです。源頼朝の指示によって造られたという説もあります。画像中央にある土橋がなかった場合、橋を渡さなければ通れません。わざと通行の障害となる造作としているので、この地点に城郭を築く必要があった、もしくは何かしらの境界線となっていた可能性が考えられます。なんだったら瓜ヶ谷と海蔵寺(扇ガ谷)を往来するための巨大な切通し路だっただけなのかもしれませんけどね。

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かまさぎ君
ふむふむ、ほんまやな、この土橋がないとさらに下ってまた登らなあかんことになるな
大堀切の土橋

大堀切のあるこの空間に平場・掘割(切通し)・切岸といった鎌倉の地形を構成する土木遺構が集中しています。地形に興味のある方はしばらく観察してみると面白いかもしれませんよ。

大堀切の切岸 崖下は海蔵寺

上述したようにこの辺りを蛇居ヶ谷といいます。あくまでも個人的な見解ですが、山だらけの鎌倉にあって蛇なんて何処にでもいるのに、ここだけ「蛇が居る谷」という地名はおかしいと思います。山に木があるから木ヶ谷と名付けるぐらいおかしなことだと思います。

地形を観察していて巨大な掘割状に出くわすと、たまに蛇が横たわっているように見えることがあります。だからたぶんこの蛇居ヶ谷という名も、この巨大な掘割状が蛇に見えたからこそ、そう名付けたのではないかと個人的には思いました。

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かまさぎ君
よ~わからん・・

葛原岡


大堀切を渡りしばらく進むと葛原岡神社に到着します。葛原岡神社は明治20年に日野俊基を祭神として建立されました。明治から昭和の戦前まで皇国史観という天皇中心の超国家主義的思想が世論を圧倒していました。そんな事情から、ここ「化粧坂山上」で処刑された後醍醐天皇側近の日野俊基が近現代にて丁重に祀られました。

一方で承久の乱にて後鳥羽上皇を島流しにした北条義時はその皇国史観からすれば、大罪人・大悪人と当時は評価されていました。葛原岡神社の歴史は古くありませんが、天皇や国家のためなら「心臓を捧げる」のが当たり前だった大日本帝国時代の事情が伝わってくるようですね。

桜の季節の葛原岡神社

ちなみに『鎌倉市史:考古編』に、日野俊基の墓は大御堂ヶ谷にあった石塔を拾ってきたものだとありました。大御堂ヶ谷には北条政子などの将軍家の家族が住んでいたので、もしかしたら逆にどんでもない貴重な石塔かもしれません。また現在梶原にある御霊神社は元はここ葛原岡にありました。御霊神社は葛原(かずらはら)親王を祀っています。その葛原親王が葛原岡(くずはらおか)の地名の由来になったといわれています。

日野俊基の墓
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かまさぎ君
葛原親王は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖とされとるんよ、つまり関東の平氏はだいたいこの葛原親王の子孫ちゅうことになるわな

化粧坂山上


葛原岡神社から土地と視界が開け、至る所に平場が造成されていることに気付きます。しかもそれら平場それぞれに段差がみられます。この辺りは鎌倉時代の公的文書『吾妻鏡』に「気和飛坂山上(化粧坂山上)」と記されている場所で、当時は商業地域として賑わっていました。現在ピクニックでお弁当を広げるのにちょうど良い場所となっていますが、現代にてわざわざ段差のある平場を各所に設けたりはしません。これらの地形は元々あったものを利用していると考えられています。

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かまうし君
建長三年(1251)に鎌倉幕府が商業地区を指定するんだけどその指定地域の一つに「気和飛坂山上」と記されているんだ、あの人気サイト鎌倉遺構探索の記事『鎌倉の商業地区』に詳しくあるよ
段差のある平場
段差のある平場

それが具体的にどの辺りにあったのかまではわかりませんが、ここ化粧坂山上には燈炉堂(とうろどう)といって、夜に火が灯され、由比ヶ浜の海上を進む船の目印として灯台の役割を果たしていた施設があったといわれています。あまりピンときませんが、昔は木々を伐採していたそうなので、由比ヶ浜を簡単に見渡せたのかもしれません。もしくはその場所は先ほどの天柱峰の辺りだという説もあります。ここから大仏裏ハイキングコースにアクセスして少し歩くと由比ヶ浜を見渡せるポイントがあります。

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かまさぎ君
大仏裏ハイキングコースを少し進んだ住宅が並ぶ辺りでこの景色が見れるで
大仏裏ハイキングコースからの景色

仮粧坂


葛原岡から進むと化粧坂分岐となり大仏裏ハイキングコースにアクセスできます。今回は源氏山まで向かうのでそのまま直進します。すると化粧坂となります。正しくは「仮粧坂」と書きます。鎌倉市などのオフィシャルが「仮粧坂」と記しています。化粧坂の語源は、遊女の化粧、処刑された遺体の化粧などといわれています。どちらにしろ化粧坂(山上)には商業施設と処刑場がセットになっていたようです。

化粧坂は全国的にもある地名のようで、大磯にも化粧坂があります。有名な曽我兄弟の祐成の恋人・虎御前などの遊女がいたといわれています。

化粧坂
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かまさぎ君
吾妻鏡に記されている大磯宿の愛寿も化粧坂にいたのかもしれへん、周りのお姉さんたちからハブられるほど可愛かったらしいで
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かまうし君
ちなみにこのエロうさぎが言っているのは『吾妻鏡』建仁元年(1201)6月2日条の記事のことだよ

化粧坂は鎌倉七口に数えられる有名な坂道です。旧態地形を留める大仏坂や名越坂のように道の真ん中に石が置かれていたり折れ曲がったりしているのは、敵の侵入する速度を少しでも抑えるためだといわれています。その名残りが未だに残っているのかどうかは皆さん自身の目で判断してみてください。

化粧坂

源氏山


そして化粧坂からすぐに源頼朝像広場となり、その奥の小高い丘に進むとゴールの源氏山となります。源氏山のすぐ下に寿福寺があります。寿福寺は元々源頼朝の父の義朝の館跡でした。だからここが源氏山と名付けられたといわれています。一方で頼朝の先祖の八幡太郎義家がここで旗上げをしたことから源氏山になったという説もあります。

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かまさぎ君
小中学校の遠足のとき、最後の集合場所がだいたいここ源氏山か八幡宮やったな
源頼朝像広場
源氏山山頂

源氏山の辺りから銭洗弁天へは大よそ5分、大仏裏ハイキングコースを進み高徳院(大仏)までは大よそ40分程度です。また化粧坂を下りて行けば5分程度で海蔵寺にも向かえます。この辺りは詳細な案内板が現地にあるので迷うことはないと思います。

大仏裏ハイキングコース

大仏裏ハイキングコースを少し進むと、常盤へ向かうハイキングコースもあります。よければ参考にしてください。

常盤・峯山【鎌倉】ハイキングコース

常盤・峯山【鎌倉】ハイキングコース

今回紹介する常盤の丘陵を歩くことができるハイキングコースは、大仏裏ハイキングコースと繋がっているのでアクセスが容易です。また鎌倉の丘陵なのでこれといった難所もありません。誰でも気軽に歩くことができます。そして何といっても、常盤の歴史を感じ...

ハイキングコース四季折々


葛原岡から源氏山の範囲では春には桜、秋には紅葉が見頃となります。また個人的には春の浄智寺参道に咲くシャガの花の季節もお勧めです。

桜の季節の葛原岡
化粧坂山上の紅葉
シャガの季節の浄智寺
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かまさぎ君
ほな、みんなが楽しく鎌倉で過ごせることを願ってるで
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かまうし君
あの人気サイト鎌倉遺構探索をよろしく

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