2015年5月30日土曜日

達谷窟毘沙門堂


達谷窟は、奥州合戦の際に頼朝が立ち寄ったと『吾妻鏡』に記されています。平泉中心区画から5kmほど離れています。当時の幹線道路である奥大道沿いに位置し、大よそ1200年前には蝦夷の悪路王が城塞を構えていたというとても古い歴史を持つ史跡です。

奥大道

奥大道は、白河関(福島県)から平泉を経由し外浜(青森県)まで続く東北の大動脈でした。そのちょうど中間に平泉の中尊寺が位置しています。

伊豆権現堂


平泉から達谷窟に向う途中、伊豆権現堂なる史跡がありました。何故伊豆なのかと悩みます。北条氏の誰かが勧請したのかもしれないと思い、向ってみました。地上から急な階段を登り丘陵中腹にそのお堂がありました。由緒書きに「江州鏡山を模し、藤原時代に伊豆権現から勧請されて霊場となった」などとあったので、北条氏が関係している訳ではないようです。残念。

伊豆権現堂

姫待瀧


さらに進むと、今度は姫待瀧なる史跡が現れました。このときはよくわかりませんでしたが、達谷窟にその由縁が記されていました。蝦夷の悪路王が京からさらってきた姫を窟上流の籠姫に閉じ込め、逃げようとする姫を待ち伏せした瀧を姫待瀧と云うそうです。そして再び逃げ出さぬよう姫の黒髪を見せしめに切り、その髪をかけた石を鬘石(かつらいし)と云うとありました。

姫待瀧
鬘石

伝承は置いといて、この鬘石なる大きな岩石、怪しい形状です。石切りがこの辺りで営まれていたのではないでしょうか。と思ったらやはり、辺り一面に石切り跡らしき痕跡がみられます。悪路王が達谷窟で城塞を構えていたという伝承からも、これら垂直に切り出された壁面が城郭の名残りだとしたら面白いですね。

石切り跡

それにしてもこの奥大道、往時の姿が思い浮かぶほどに大きい道で、壮大な自然に囲まれています。底面がコンクリートとなっている以外は、頼朝が訪れた時代からそんなに変わってないんじゃないかと思うほどです。

奥大道

毘沙門堂境内


ということでようやく達谷窟毘沙門堂に到着。あたりまえですが、観光パンフレットなどで見たとおりの姿をしています。境内は、毘沙門堂、それから先ほどの姫待瀧から移動してきた不動堂や金堂などで構成されています。

達谷窟毘沙門堂

『吾妻鏡』文治五年(1189)9月28日条(現代語訳より一部抜粋)

「(頼朝が)鎌倉に向けて帰路につかれた。途中、ある青山に臨まれ、(頼朝が)その名前を尋ねられたところ、田谷窟であるという。これは坂上田村麿将軍らが朝廷の命により蝦夷を征服しようとしたとき、賊主悪路王ならびに赤頭らが砦を構えた岩屋である。その巌洞の前の道は、北に十日余り行くと外浜に至る。坂上将軍はこの窟の前に九間四面の寺院を建立した。鞍馬寺を模して多聞天の像を安置し西光寺と名付けて水田を寄付した。」

毘沙門堂

窟と云うからには、毘沙門堂内に洞窟があるのかと思っていましたが、そういうことではなく、あの毘沙門堂がハマっている壁面自体がへこんでいて、窟と呼ばれたのだということを現地で気付きました。しかも吾妻鏡には達谷窟ではなく「田谷窟」と記されているので、田谷の洞窟を思い浮かべてしまいます。妄想が膨らみ過度の期待をしてしまいました。さらにこの壁面沿いに岩面大仏と呼称される浮彫が施されています。

岩面大仏

日本最北の磨崖仏で、画像ではあまり伝わらないかもしれませんが、顔の長さ3.6m、肩幅は9.9m、高さは16.5mもあります。明治29年の自身で胸から下が崩落してしまったそうです。前九年・後三年合戦の供養のため、源義家が馬上より弓弭(ゆみはず)で彫り付けたと伝わっています。

岩面大仏顔部分

伝承が本当であれば、前九年・後三年の役の折には、源頼義・義家が戦勝祈願のため寺領を寄進したと由縁にあったので、そのときにこの岩面大仏が彫られたのかもしれません。それにしてもそんな昔の磨崖仏がこれほど明瞭に残されているなんて信じられません。鎌倉石なら今頃姿形も確認できないほどに風化しているでしょう。


上記した吾妻鏡の一文にもありましたが、毘沙門堂は清水寺の舞台造りを模して造られています。堂内には108体の毘沙門天が祀られているとありました。そして毘沙門堂の前に蝦蟇ヶ池弁天堂があります。発掘調査の結果、12世紀には玉石護岸をもつ池であったことがわかっています。また、池からは平安末期のかわらけが大量に出土しています。

毘沙門堂から見た蝦蟇ヶ池弁天堂

蝦蟇ヶ池弁天堂由縁
「中尊寺・毛越寺の開山と伝わる慈覚大師が、達谷川や北上川で行き来する美しい浮島を五色の蝦蟇(がま)の姿で貧乏をもたらす貪欲神が化けていると見破りました。大師は、島を捕らえ毘沙門堂の前まで引き、再び逃げ出さぬように一間四面の堂宇を建立しました。」

弁天堂と蝦蟇ヶ池

境内の奥に入って行くとあるのが、先ほど来る途中で見た姫待瀧から移された姫待不動堂です。堂宇の腐朽が著しいため、姫待瀧から寛政元年(1789)に毘沙門堂境内に移されたとありました。

姫待不動堂

毘沙門堂の由縁は、ほぼ吾妻鏡を引用しているようでした。「およそ1200年前、悪路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ、女・子どもを掠める等乱暴な振る舞いが多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。」と続きます。北へ北へと移動していった蝦夷(えみし)と呼ばれた人たちが本当にそんな悪かったのでしょうか。疑問に思えてきます。所詮歴史なんて勝者側の記録でしかないのだと、改めて思い知らされます。




カテゴリー 平泉遺構探索
記事作成  2015年5月30日

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