山号寺号 金峯山不動院大善寺
建立 天平元年(728)
三浦一族の本拠地衣笠城内に大善寺は所在しています。城跡と伝わるだけあってちょっとした山登り感覚で向います。
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Google map 横須賀 |
大善寺縁起
衣笠城内にある大善寺は、寺縁起によれば、天平元年(728)に行基がこの山に金峯蔵王権現と不動明王を祀り、その別当として建てられたのが大善寺であると伝えられています。現在は蔵王権現社も不動堂も残っていませんが、不動明王像が大善寺の本尊として祀られています。一方で『新横須賀市史』によれば、義明の代に建立したのだろうという見解を示しています。
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坂道途中にあったお花畑 |
大善寺境内
横横の衣笠インターからも近い坂道を登って行きます。コンクリートで舗装されていますが、道の傾斜具合、真っ直ぐではない形状からも旧道の様相を留めていてとても素敵です。途中に民家などが建ち並んでいるため、往時からある平場をそのまま宅地としたのかもしれないと想像が膨らみます。
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大善寺へ向う坂道 |
民家敷地内に大きめな岩石がありました。現地案内板に「旗立岩」という表記があったので、そのことかもしれません。また地図上にはここからも登り下りできそうな道が描かれています。道上に家を建てたのでしょうか、どちらにしろ民有地なのでどうしようもありません。
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民家敷地内にある旗立岩と思われる岩山 やぐらのような造作も・・ |
しばらくすると大善寺が現れます。『新編相模風土記』に、大善寺裏山を衣笠城の本丸跡、大善寺所在地を二の丸跡と記されています。そう云われれば確かにそれらしい雰囲気が伝わってきます。ここから裏にあったとされる蔵王権現跡まで平場が連なる壮大な段状地形を体感できます。
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大善寺 |
横須賀市指定重要文化財
大善寺には市の重要文化財があります。平安時代末期の制作と推定される木像阿弥陀三尊像と、平安末期から鎌倉時代初頭の制作と推定される。木像毘沙門天立像です。毘沙門像は中尊寺にある増長天立像と様式が一致しているため、奥州合戦において、頼朝をはじめとする多くの御家人らが平泉文化に影響を受けたことが本尊制作のきっかとなったのであろうと案内板にありました。
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大善寺の横須賀市指定重要文化財 |
金峯蔵王権現跡
大善寺からまた階段を登って行くと裏山となります。衣笠城跡公園として整備されているものの微妙に平場が削平されていない素敵な地形をしています。この辺りに大善寺の縁起にあった金峯蔵王権現があったのでしょう。一画に御霊社が祀られていました。
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頂部平場 蔵王権現社跡 |
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御霊社 |
岩石が露出する物見岩と呼ばれる場所がありますが何も周囲を見渡すことはできません。また、物見岩から堀状地形の向こうにまた地形が盛り上がっており、稲荷社が祀られていました。この辺りから平安時代の経塚が発見されたそうです。その奥から少しだけ景色が開けました。でも衣笠城跡って周りの丘陵とそれほど標高が変わらないので遠くを望むことができません。
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経塚が発掘された辺り |
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景色が開けた!と思ったら周りの山しか見えなかった・・ |
衣笠合戦
治承四年(1180)、頼朝が石橋山合戦に敗れたという報せに、合流せず帰途につく三浦一族でしたが、当時平家方だった畠山重忠らの軍勢と鎌倉で鉢合わせし、世に云う小坪合戦(由比ヶ浜合戦)が勃発します。このときは三浦一族の優勢で幕を閉じましたが、後日、畠山重忠は河越重頼・江戸重長らと共に衣笠を攻め落とします。三浦義明は子孫ら一族に生きて勲功をあげるよう諭し房総半島に向わせ、自ら捨石となり城に残り最期を迎えました。『三浦半島城郭史』によれば、三浦一族は453騎、畠山ら平家方は3000余騎とありました。さすがの三浦一族でも話にならない程の兵力差だったようです。
城郭か?聖地か?
「衣笠城は聖地であって城郭ではなく、城郭は大矢部地域そのものではないか」という説が『大矢部のはなし』に紹介されていました。確かに『三浦半島城郭史』(以下城郭史)にも「衣笠館」と記されていますし、「衣笠城に近接する大矢部城・小矢部城・平作城などが大矢部の馬蹄形地形に進入する出入口を守るよう配された」とあるように、衣笠城というより大矢部地域全体で一つの城郭であったようにも受け取れます。ですから大善寺の周辺に配された支城は城というより鎌倉でいうところの七口を守るための砦だったのかもしれません。
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Google map 大矢部 |
何故、三浦義明が衣笠城を枕に討死にの覚悟だったのか、それは和田義盛が畠山らを怒田城で迎え撃つべしと義明に進言したことからもわかるように、衣笠城に特別優れた城郭が施されていた訳ではなく、大善寺という三浦氏にとって神聖な場所が衣笠城にあったからこそ、義明はここで死ぬことを覚悟したのではないでしょうか。元弘の乱で北条氏が得宗家の菩提寺東勝寺で自刃したように、義明もどうせ死ぬなら三浦氏の聖地で死にたいと思ったのかもしれません。
衣笠城が城だったのか、聖地だったのか、『城郭史』に、「この地では六口七作十二谷の呼称を伝えているが、何がどこにあったのかまでは伝わっていない。六口から衣笠城へ六ヶ所の登り口があることを伝えるものと解する」とあるように、現代の土地開発によって地形が失われ今となっては詳細に検証する手だてもありませんが、ここが三浦義明にとって最期の場所として選ばれるほど重要な地であったことだけは確かなようです。
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記事作成 2015年7月10日
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