2015年7月7日火曜日

満昌寺


山号寺号 義明山満昌寺
建立   建久五年(1194)
中興開山 天岸慧広


三浦一族の本拠地、大矢部に所在する満昌寺は、三浦大介義明の追善供養のために建立された寺院です。山号は義明の名、寺号は義明の法号に因みます。

Google map 横須賀

満昌寺縁起


『吾妻鏡』の建久五年(1194)9月29日条に、頼朝が三浦大介義明を弔うため、寺の候補地を巡検させている記事がみられます。これがどうやら満昌寺のようで、満昌寺の縁起には建久五年(1194)の建立とありました。ちなみに、吾妻鏡の記事にはその後満昌寺が建てられたとは記されていません。一方で鎌倉の材木座に頼朝が義明を弔うために建立したと伝わる来迎寺があります。義明の墓と伝わる五輪塔が安置されています。

材木座来迎寺にある三浦大介義明の墓

満昌寺境内


くぐってはいけない山門の向こうに本堂があり、本堂前には頼朝お手植えと伝わるツツジがあります。本堂の奥には御霊神社が祀られていましたが、現在は宝物殿となっています。もしくは宝物殿兼御霊社なのかもしれません。さらにその奥に義明の首塚と伝わる宝篋印塔があります。往時の裏山部分は、ゴルフ場建設などにより失われています。


満昌寺の縁起には、頼朝が義明の供養のために満昌寺に訪れツツジを自ら植えていったと伝えられています。このときもう紫陽花の季節だったので、見てのとおりツツジはちょっと旬を過ぎていました。

頼朝お手植えのツツジ

満昌寺所蔵国指定重要文化財


宝物殿に三浦大介義明の木造坐像が伝えられています。写実的な彫技が評価されており、現地案内板には鎌倉時代後期の制作とありました。坐像の首部分に「建久五年」と記された墨書があるそうです。がしかし、これは後世の加筆と推測され、坐像の作風からも室町期に造立されたと考えられています。その他には市指定重要文化財として、中興開山に迎えられた天岸慧広の木造坐像、本尊の木造宝冠釈迦如来坐像などがあります。どちらも南北朝期頃の作品と考えられています。

現地案内板

三浦義明廟所


本堂奥の階段を登ると、宝物殿、そしてその裏に義明の首塚と伝わる宝篋印塔があります。『横須賀こども風土記』に、宝物殿がある場所は、かつて御霊社があったところだと記されていました。しかもその御霊神社、和田義盛の建立なんだそうです。石灯篭の記銘から、三浦氏の子孫となる三浦志摩守らによって整備されたものであることがわかっています。階段沿いには33体の羅漢像が置かれています。


義明の首塚と伝わるものは安山岩製の鎌倉末~室町期の宝篋印塔です。この画像だと隠れてしまってますが、正面右側の五輪塔を義明の妻の墓と伝えられています。

三浦大介義明墓

裏山


上記したように満昌寺の裏山部分はゴルフ場の建設などで失われています。墓地部分が往時の裏山を偲ばせるような高台になっているので、少しだけお邪魔させてもらいました。大矢部の街を一望できます。

往時の裏山部分であろう場所からの景色

磨崖仏


満昌寺の奥は「やきばやと」と呼ばれ、明治中頃までは焼き場(火葬場)に使われていたそうです。隣接するゴルフ場に向う途中に磨崖仏が残されています。

やきばやと

風化が進んでいるためよくわかりませんが、現地案内板によれば、線刻された仏像の様子から鎌倉時代に彫られたものと考えられています。また『三浦半島の史跡みち』にはこの磨崖仏をレプリカだとありましたが、そうは見えませんでした。まだまだ私の目も節穴のようです。

磨崖仏

義明は衣笠合戦にて子孫の繁栄のため自ら捨て石となって命を落としました。もともと三浦氏は源氏に仕えていましたが、この義明の死が義澄や和田義盛などのその後の幕府における地位確立に影響を及ぼしたことは間違いないでしょう。横須賀に訪れた際は是非三浦の大殿にご挨拶を。




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記事作成  2015年7月7日

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