薬王寺跡 矢部館
三浦一族の本拠地となる大矢部に「ボッチャ」と呼称される土地があります。ここには薬王寺という寺院がかつては存在し、また三浦義澄の館があった可能性も高いと考えられています。
薬王寺跡 |
薬王寺跡
山号寺号 :仏頂山薬王寺創建 :建暦二年(1212)
開基 :和田義盛
住所 :神奈川県横須賀市大矢部1−13−5
薬王寺跡
近殿神社から狭い路地を伝っていくとあるのが三浦義澄の墓と伝わる五輪塔です。大きめな石塔を三段に重ねたもので、頂部には宝篋印塔らしき石塔が置かれた変わった見た目です。周りには鎌倉でもよく見かける小さなサイズの五輪塔がたくさん置かれていました。
ここには明治の頃まで薬王寺というお寺がありました。ですからこの五輪塔群はその薬王寺の名残りとなります。民家と民家のほんの狭い敷地にあります。
薬王寺跡 |
三浦義澄墓 |
薬王寺縁起
仏頂山薬王寺は、建暦二年(1212)、和田義盛が父義宗と叔父義澄の菩提を弔うために建立したと伝えられています。薬王寺で使われていた瓦は、京都壬生寺や鎌倉極楽寺とまったく同じものであることがわかっています。
『大矢部のはなし』によると、昔はここから裏山への登頂口があり山頂社が祀られていたそうです。また、この山は、三浦大介義明が戦死した際、義明の愛馬がこの山に駆け上り山頂で自ら舌を噛み切って死んだ場所だと言い伝えられています。
義澄墓から大通り方面に戻ると、また石塔の欠片らしき石造物が置かれている一画があります。これらは駒繋ぎ石と呼ばれるもので、昔はこの石に牛や馬を繋いで薬王寺や山頂社にお参りに行っていたそうです。そしてこの駒繋ぎ石がある辺りがお寺があった頃の山門位置となるようです。
薬王寺の駒繋ぎ石 |
義澄の矢部館
『大矢部のはなし』によると、この辺りはボッチャと呼ばれていました。語源としては「坊地」が転訛したものだと推測されています。
『三浦半島城郭史』に「義澄の館は矢部(大矢部)にあったから義澄を矢部の別当といった」とあります。さらにこの義澄の館位置を満昌寺の西、それから現在の清雲寺、そしてここ薬王寺跡の3三ヶ所のどれかだろうと同書では推測しています。
和田義盛がわざわざここに薬王寺を建てたことからも、義澄の館がここボッチャにあった可能性も十分に考えられるのでしょう。
Google map ①衣笠城 ②満昌寺 ③清雲寺 ④近殿神社 ⑤薬王寺跡 ⑥円通寺跡 |
周辺は山の上まで宅地開発されていて往時の様相を想像するには難しい現状となっています。但し現地に訪れるとちょっとした小谷戸であったことぐらいはかすかに伝わってきます。
三浦半島は海に囲まれているので自然が多く残されているイメージをもっていましたが、それは油壺や城ヶ島などの観光地に限った話で、その他の土地開発の現状は東京と変わりません。
三浦義澄の墓 |
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