瑞鹿山円覚興聖禅寺遺構探索
円覚寺
山号寺号:瑞鹿山円覚興聖禅寺建立 :弘安五年(1282)
開山 :無学祖元
開基 :北条貞時
北鎌倉駅前に所在する円覚寺は、ご存じ建長寺と並ぶ鎌倉を代表する禅寺です。境内のあまりの壮大な雰囲気に、お寺ではありますが、鎌倉好きな人からすれば、ここまでくるともうお寺というよりアミューズメントパークではないでしょうか。ということで、鎌倉遺構探索では円覚寺境内における往時の痕跡をメインに円覚寺を紹介していこうと思います。
円覚寺境内案内図 |
円覚寺縁起
『鎌倉市史 社寺編』によれば、建長寺開山の蘭渓道隆が寂し、建長寺の住持が空席になったため、北条時宗は弘安元年(1278)12月に名僧を招くべく蘭渓道隆の弟子を宋に派遣します。
幕府の第一希望であった環渓唯一という僧侶が既に80歳の高齢であったため、首座の無学祖元(仏光禅師)が日本へ派遣されることになり、弘安三年(1280)に宋から来日してきました。時宗はこれ以降絶えず無学祖元に参禅したと云われています。
その後、元寇における戦死者を弔うため、弘安五年(1282)、無学祖元を開山に迎え円覚寺が建立されました。
円覚寺総門 |
北条時宗が蘭渓道隆を開山として一寺を建立しようと土地を物色していたとき、現在の円覚寺がある地で蘭渓道隆が「ここにしましょう」と指差した場所から円覚経が納められた石櫃が出てきたことが円覚寺という名の由来であると云われています。
円覚寺境内
境内は、建長寺と同じく山門・仏殿・方丈などがほぼ直線上に並ぶ典型的な宋の禅寺様式となっています。法堂は火災での焼失後、建造されていません。仏殿の後にあるスペースが法堂跡です。また往時では40以上を数える塔頭・支院があったと云われています。下地図画像のほぼ全域が往時の円覚寺領域です。
Google map 円覚寺 |
山門 |
円覚寺ではかなりの頻度で火災に見舞われています。それぞれがどれほどの被害だったのかまではわかりませんが、鎌倉期を調べただけでも弘安四年(1281)、弘安五年(1282)、弘安十年(1287)、正応三年(1290)、正和五年(1316)、文保二年(1318)に火災が発生しています。
さらに日本は地震大国です。昔の建物が姿そのままに伝わることは難しいのでしょう。境内の建物はどんなに古くても近世以降のもので、唯一、塔頭の正続院にある舎利殿が西御門にあった太平寺の仏殿を移築したもので南北朝期のものと云われています。
正続院 |
往時の円覚寺
鎌倉市教育委員会の調査報告書に、弘安六年(1283)の『円覚寺年中寺用注進状及び当寺米銭納下帳』に円覚寺に従事する人たちが記載されていたので引用します。「僧100人、行者人工100人、承仕20人、洗衣4人、方丈行者6人、下部38人」とのことです。このことからも円覚寺が計268人を擁する大寺院だったことがわかります。さらに、暦応三年(1340)には「300人を越えないよう規制を受けている」とありました。
方丈 |
円覚寺境内絵図
円覚寺には往時の境内を描いたとされる古絵図が伝わっています。市史によれば、絵図は貞治二年(1362)の円覚寺文書目録にある『寺並門前新御寄進絵図』と考えられています。制作時期は、嘉暦二年(1327)から暦応五年(1342)、もしくは建武四年(1337)以前、さらには建武二年(1335)など、諸説あるものの絵図にある建物などから専門家らによってある程度の年代が推測されています。
個人的に直接聞いた話では、幕府滅亡(1333)直後の境内を描いたもので、鎌倉時代の円覚寺と言っても差し支えないと聞きました。
円覚寺境内絵図 |
法堂のあるなしは置いといて、現在の伽藍配置と絵図の様相にそれほど大差ありません。山門や仏殿はほぼ同じ位置、また方丈後方にある妙香池らしきもの、総門前方にある白鷺池、さらには凹型をした街道の形状など、こうして見ると意外に当時からの名残りが伝わっていることがわかります。
下馬門跡
絵図の白鷺池前に凹型をしたスペースが描かれています。これは往時に下馬門があったことにより、その下馬門を迂回するように街道がこのような形状になっています。そして下のグーグルマップ画像を見てください。なんと、現在もこの街道の形状が名残りを伝えているではありませんか、皆さんご存知でしたか。中世からの地形の名残りが残されているんですよ。
円覚寺境内絵図 |
Google map 円覚寺 |
明治22年(1889)2月、円覚寺境内を寸断する形で国鉄横須賀線が開通しました。そして昭和2年(1927)に北鎌倉駅が建てられたそうです。
県道21号線 下馬門跡による地形の名残り |
白鷺池
古絵図に白鷺池(びゃくろち)が描かれています。ですから白鷺池も当時からあったことになります。その白鷺池には、白鷺に化身した鶴岡八幡宮の神霊が無学祖元をここに導いたという伝承が伝わっています。ちなみに私も鎌倉で白鷺に会ったことがあります。よくよく考えるとこうした伝承と同じ動物と今でも出会えるって凄いことですよね、東京じゃ鷺なんて見れませんから。
白鷺池 |
明月谷で見た白鷺 |
鎌倉時代のお宝① 梵鐘
弁天堂にある梵鐘は、正安三年(1301)に北条貞時が寄進したもので国宝に指定されています。物部国光の作で、洗練された技法として評価されています。弁天堂もそのときに建立されたと伝えられています。
梵鐘 |
鎌倉時代のお宝② 宝冠釈迦如来
仏殿にある円覚寺本尊の木造宝冠釈迦如来像は、冠を被っているので宝冠釈迦如来と呼ばれています。そしてなんと、頭部が鎌倉時代のものです。
弘安五年(1282)に安座したこの釈迦如来像は、残念ながら永禄六年(1563)の大火で頭部を除く大部分が焼失してしまいましたが、寛永二年(1625)に体部が補われました。こうした立派な仏像を見るたび思いますが、CGで作図など出来ない時代に、よくもまぁこんな精巧な表情が作れたものだと感心してしまいます。
宝冠釈迦如来像 |
円覚寺の釈迦如来像はどこか厳しい表情をしているように思えました。元寇の使者を即斬首するなど、強硬外交を貫いた北条時宗をはじめとする当時の幕府の決意を表したかのように思えてなりません
仏殿 |
発掘調査の結果
鎌倉市教育委員会の調査報告書によれば、円覚寺ではこれまでに総門前周辺、妙香池、塔頭の続燈庵、如意庵、帰源院、雲頂庵などで発掘調査が行われました。
下馬門付近では、馬道と側溝及び下馬門を囲う柵が検出されています。まさに下馬門がそこにあったことが証明される結果となりました。また、妙香池では、過去に5~6回の改修工事が実施されたことがわかり、そのうち2回は江戸期のものであることが確認されています。
妙香池 |
塔頭の続燈庵では、鎌倉では検出例の少ない地下式抗が発掘されました。但し、これは墓ではなく貯蔵穴ではないかと推測されているようです。
続燈庵(拝観不可) |
やぐら
”やぐら”の発掘調査に関しては、帰源院下、帰源院東、雲頂庵などで発掘調査が行われ、合計で17基を数えたとありました。しかし「急傾斜崩壊対策事業に伴う”やぐら”の発掘調査」とあったので、もう既に失われているのかもしれません。
居士林 |
塔頭の松嶺院・済蔭庵(居士林)・龍隠庵の辺りは大々的な切岸が施されていて横穴も確認できます。但しこれらは形状が微妙なので石切りの行程でできたものなのか、本当に葬送のための横穴だったのかは素人では判断しづらいところしょう。また黄梅院に”やぐら”がありますが一般拝観者は立ち入ることができません。
龍隠庵 |
円覚寺付近にあったお寺
下絵図は『円覚寺境内絵図』の下部左側、つまり円覚寺総門の西側部分にあたります。現在の北鎌倉駅ホームの辺りです。当時は正観寺というお寺があったのが絵図からもわかります。
『鎌倉廃寺辞典』によれば、正観寺(しょうかんじ)は鎌倉時代から存在した寺院です。元亨三年(1323)の北条貞時十三年忌供養に参加した僧衆が6人とあったので、それほど大きな寺院ではなかったようです。また円覚寺2世の大休正念が寂した場所として知られています。拝観はできませんが、円覚寺境内にある蔵六庵という塔頭がその大休正念の塔所となります。
円覚寺境内絵図 |
絵図の左に「塔」と記されている場所が現在の塔頭雲頂庵のある場所です。当時は絵図の西側に長勝寺というお寺があり、絵図にある「塔」という辺りに長勝寺の開山塔雲頂庵があったと云われています。永享の乱(1438)の頃に長勝寺は廃絶となり開山塔だった雲頂庵もそのとき廃されたようですが、のちに長尾忠景によって再興され、近世にて円覚寺塔頭に加わりました。
雲頂庵からの眺め |
雲頂庵のある辺りからの眺めは、ちょっとした山を登ったかのような景色が広がっています。すぐ下に北鎌倉駅があるんですよこれ。雲頂庵を再興した長尾忠景の父の景仲がこの辺りに邸を構えたと云われています。
基本情報
名称 :円覚寺住所 :神奈川県鎌倉市山ノ内409
駐車場 :なし
拝観時間:8時~16時30分(冬季は16時まで)
拝観料 :大人500円・子供200円
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