タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト
タイトルのテキスト

埼玉県比企郡【吉見町】で史跡めぐり

2025/10/12

埼玉 寺院 神社

t f B! P L

吉見町

吉見町
埼玉県比企郡吉見町に行ってきました。鎌倉フリークの間では比企氏に関する土地であり、また蒲冠者源範頼の子孫・吉見氏が拠していたことでも周知されています。以前からいつか行ってみたいと思っていたので、思いきって行ってみました。がしかし、比企氏というより、古代に関する史跡にほぼ時間を費やしてしまいました。ということで今回はそのダイジェスト編です。

基本情報

名称    :埼玉県比企郡吉見町
所要時間  :東京都心から車で大よそ1時間30分


国土地理院地図で見るとわかりやすいと思いますが、吉見町は西側が丘陵部(吉見丘陵)、東側が沖積地となっています。そしてなんとこの狭いエリアに延喜式①③④が三社もあります。しかもそれら全て出雲の神。これは一体どういうことなのでしょう。ということで、今回はその延喜式三社と、吉見観音・岩室観音堂・吉見百穴に向かってみました。
国土地理院地図
①髙負彦根神社 ②吉見観音 ③伊波比神社 ④横見神社

吉見観音

まずは吉見観音で知られる岩殿山安楽寺。大同元年(806)に坂上田村麻呂によって吉見の総鎮守とされました。本尊は行基の作と伝える聖観世音菩薩。往時では、源範頼が三重大塔と大講堂を建立したと伝えられています。現在の三重塔は寛永年間に建立されました。
吉見観音
吉見観音
吉見観音
吉見観音
吉見観音
周辺は御所という字名が伝えられています。蒲冠者源範頼の子孫・吉見氏が館を構えていたことに因みます。修善寺で”殺害された”範頼の遺児は、比企尼や丹後局の願いによって助命され、慈光寺で出家し別当となりました。その後、子の為頼が比企尼の吉見庄を譲り受け、吉見氏の祖となったと伝えられています。
吉見観音
源範頼の子孫だということは将軍に就く資格があるということになってしまいます。北条氏から即効で攻め滅ぼされそうですけどね。

式内社① 髙負彦根神社

ポンポン山公園駐車場
「吉見町の狭いエリアに式内社がなぜ三社もあるのか」と、神妙な面持ちで髙負彦根神社に向かいましたが、「ポンポン山公園無料駐車場」・・という和やかで何となく家族で来なきゃいけないような雰囲気に力が抜けました。
髙負彦根神社
髙負彦根(たかおひこね)神社の祭神は、味鉏高彦根(あじすきたかひこ)尊・大己貴尊、もしくは素戔嗚尊です。また玉鉾(たまほこ)氷川明神とも称したとあります。和銅三年(710)の創建。高負比古命の高負は「たけぶ」であり、「叫ぶ」と同義語で、雄たけびをあげる猛々しさを意味します。他人と間違えられ喪屋を破壊し飛び去ったという逸話もあるので、素戔嗚を彷彿させるかなり荒々しい印象の神。
ポンポン山の巨石
「社殿後方の巨石付近の地面を踏むとポンポンと音が鳴るのでポンポン山となった」とありました。ちなみに飛び跳ねてみましたが音は鳴りませんでした。またこの巨石の「直下20mの平地は古代荒川の流路であった」と記されています。今ここから見える景色からは想像もつきません。それにしてもこの巨石、これは磐座ですね。
髙負彦根神社背後の巨石からの景色「荒川どこ・・」

式内社② 伊波比神社

移動して次は伊波比神社。和銅年間(708~715)の創建で祭神は建速須佐之男命・櫛稲田比賣命。伊波比=岩井ですね。神社が所在する丘陵部には八丁湖があります。以前は清水が涌く場所だったから”岩井”とする考えもあるそうです。岩崎神社を摂社としていましたが、吉見丘陵の崖裾に建つこの立地条件、まさにこれは”岩井神社”というより”岩先神社”ですねココ。
伊波比神社
伊波比神社

式内社③ 横見神社

横見神社では五領期(3~4世紀)の集落遺跡が発掘されています。創建は和銅年間(708~715)で、祭神は建速須佐之男命・櫛稲田比賣命。丘陵部ではなく沖積地の微高地に所在しています。建長年間(1129~56)に洪水に遭い、社殿もろとも流されてしまい、御神体(石剣)が久保田の地に漂着したため、新しくそちらで祀られることになりました。元々の横見神社を飯玉氷川神社、漂着先の久保田で新しく祀られた横見神社を飯玉明神社とも云います。
横見神社(飯玉明神社)

岩室観音堂

吉見丘陵の南側に所在する岩室観音堂は龍性院の境外仏堂となります。岩を穿って観音像を祀ったことに始まります。またここに祀られている八十八体の石像は、四国八十八ヶ所霊場のそれぞれの本尊を模したものだとありました。
岩室観音堂
「岩を穿って観音像を祀った」場所かな?
岩室観音堂
ハート型の胎内くぐり
岩室観音堂
丘陵部に気のせいか竪堀のような造作がみえたので、奥に進み登って行くと大変なことに。なんと中世の山城跡でした。武蔵松山城跡です。しかもかなり保存状態が良いです。掘割・堀切が土橋がないと歩いていけない程の深さ。但し、アブと蚊が凄くてゆっくり観察することはできず退散。
武蔵松山城跡
武蔵松山城跡

吉見百穴

そして古墳時代末期横穴墓の吉見百穴です。ここまで一ヶ所に群集する横穴墓を見たのは初めてです。神奈川県や房総半島で横穴墓を見ましたが、地域ごとで特色がそれぞれあるのだと改めて感じさせられました。紛らわしいことに戦時中の地下壕(地下軍需工場跡)まであります。
吉見百穴
吉見百穴
吉見百穴
吉見百穴からの景色
ちなみにコロポックル(アイヌの伝承に伝わる小人)の住居跡ではないかという論争がまじめにされていた時代もあったそうです。でも現地に来るとその気持ちが少しわかるんですよ。他の地域の横穴墓と比べるとサイズが小さいし、羨道が狭いんです、玄関みたいに(笑)。横穴墓は基本的に在地有力者の墓だとされていますが、そうは思えぬ質素な雰囲気です。
吉見百穴の地下壕(地下軍需工場跡)
ところで、この地下壕は、昭和19年に3000人以上の朝鮮人労働者の突貫工事によって掘削されたそうです。ちなみに、この横穴墓も6世紀頃の朝鮮半島の争乱から避難してきた大量の渡来人らが武蔵国まで動員されて造成されました。何というか、壮大な時間軸の因縁めいた偶然というか、歴史の反復というか、言い表す言葉がみつかりません。

あとがき

ということで吉見町でした。吉見町ではその他、言われなきゃ気付かない程度の古墳であれば、無数にあった印象があります。古代にて賑わっていたのであろう雰囲気が伝わってきます。また史跡名に「岩」「玉」がやたらと登場しましたが、吉見町の歴史を紐解くキーワードでしょうか。

何故あの狭いエリアに延喜式が三社もあるのか、何故出雲系の神だらけなのかなど、現在、著書・資料を読んで勉強中です。近いうちに関連記事をアップできると思います。良ければまた見にきてください。それでは、今回も最後までお付き合いいただきありがとうございます。
さきたま古墳群
なぜ比企氏の史跡に行けなかったのか、それはさきたま古墳群へ行ったから(笑)

埼玉関連記事

高麗神社・大宮鉱山

高麗神社・大宮鉱山

高麗神社・大宮鉱山 高麗神社・大宮鉱山 埼玉県日高市の旧高麗郡に所在する高麗神社と聖天院に行ってきました。そして同じく日高市にある巾着田曼珠沙華公園で夢にまで見た景色も堪能してきました...

ブログ内検索

ブログ アーカイブ

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ