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観自在王院跡

2015/05/25

廃寺 平泉

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観自在王院跡


奥州藤原氏二代基衡が建立した毛越寺の隣に、基衡の妻が建立した観自在王院跡が残されています。当初は基衡の邸宅でしたが、基衡没後に寺院に造り替えたと考えられています。

平泉の表玄関と倉町遺跡


毛越寺と観自在王院跡のある辺りが平泉の表玄関となります。つまり平泉の玄関口では基衡の邸と基衡自慢のお寺がいきなり迎えてくれることになります。鎌倉で例えると、極楽寺坂に永福寺(頼朝のお寺)と大倉幕府(頼朝邸)があるようなものです。考えられないですね。

平泉
①中尊寺 ②金鶏山 ③毛越寺 ④観自在王院跡 ⑤白山社跡 ⑥無量光院跡 ⑦柳之御所跡 ⑧高館

観自在王院の南側に倉町遺跡と云って、大型堀立柱建物跡2棟が見つかっています。建物は堀に囲まれていること、周辺から平泉でも出土量が少ない青白磁碗や中国産陶器が焼けた状態で出土していることから『吾妻鏡』にある「高屋」ではないかと考えられているそうです。

観自在王院跡前面通り

ちょっとこの辺りの吾妻鏡(現代語訳4巻)を読んでみたところ、文治五年(1189)8月21日に、泰衡が朗従を使って平泉館(柳之御所)に火を放ち逃亡したとあります。その翌日の22日に頼朝が焼失した平泉館に到着するのですが、「延焼の難を免れていた一棟の蔵が西南の角にあった」と記されています。

倉町遺跡

平泉館(柳之御所)でも高屋と推測される建物が発掘調査で見つかっていますが、この延焼の難を逃れた蔵が倉町遺跡の辺りではないかと案内板にありました。確かに平泉館から倉町遺跡はだいたい西南方向となります。上の地図画像でも確認できると思います。吾妻鏡には、牛玉・犀角・象牙の笛・水牛の角・紺瑠璃の勺・金の沓・玉幡・金の華鬘などなど、海外貿易によってもたらされた珍しい宝が数え切れないほど納められていた様子が記されています。

観自在王院境内


観自在王院跡にある浄土庭園の遺構は、日本最古の庭園書『作庭記』の作法に沿って造営されていることがわかっています。また、池の北岸に大阿弥陀堂と小阿弥陀堂が設けられていたことから、極楽浄土を表現した庭園と考えられています。

観自在王院跡復元配置図
①南門跡 ②車宿跡 ③西門跡 ④大阿弥陀堂 ⑤小阿弥陀堂 ⑥鐘楼跡 ⑦普賢堂跡

観自在王院跡推定復元図
①南門跡 ②車宿跡 ③西門跡 ④大阿弥陀堂 ⑤小阿弥陀堂 ⑥鐘楼跡 ⑦普賢堂跡

観自在王院跡にある浄土庭園の遺構は、池周りを中心にほぼ完全に残されており、日本最古の庭園書『作庭記』の作法に沿って造営されていることがわかっています。池を舞鶴ヶ池と云います。史跡公園なので、周辺を自由に散策することができます。南門跡方面から時計周りにめぐってみました。園池は各地点からその姿を変え訪れた人を魅了してくれます。

観自在王院 舞鶴ヶ池

西門跡


敷地西側で四柱門の礎石を用いた門跡が見つかっています。規模は大きくありませんが、伽藍中心部に近いことなどから、日常の往来などに利用されていたと考えられています。また、近くには土で積み上げられた土塁が南北に続いています。

西門跡

車宿跡


毛越寺の東境と観自在王院の西境に挟まれた幅約30mのスペースに牛車を格納するための建物がありました。この建物を「車宿」と云います。『吾妻鏡』にも観自在王院の西に数十の「車宿」があったと記されています。底面には玉石が敷きつめられています。牛車が動きづらそうに思えますが、きっと何か駐車場としての利点があるのでしょう。水はけですかね。

車宿跡

滝石組


どこまで現代で再現したのかわかりませんが、当時の名残りが残されています。毛越寺の弁天池方面から引いた水がここ舞鶴ヶ池に注がれていました。この地点に大小18個の石が組まれていますが、『作庭記』にある「伝い落ち」という技法を用いているそうです。

滝石組

阿弥陀堂跡


滝石組から少し進むと、上の絵図にもあるように境内の北側に大阿弥陀堂と小阿弥陀堂が建てられていました。堂内の壁には、洛陽の霊地名所が描かれていたそうです。華やかな堂内であったことが偲ばれます。

阿弥陀堂跡地に建てられている現在のお堂

鐘楼跡


阿弥陀堂跡から東側に進むと鐘楼があった辺りになります。鐘楼跡は特別何かある訳ではありません。また阿弥陀堂跡付近の池にポツンポツンと景石がみられます。こちら側にも何か造作があったのかもしれません。


吾妻鏡に記された観自在王院跡


現地案内板に平泉教育委員会が訳した吾妻鏡の観自在王院跡の項にある文章がありました。平泉の衆徒が頼朝に提出した文書が吾妻鏡に載せられたとあります。

「観自在王院は阿弥陀堂とも号するなり。基衡の妻(安陪宗任の女)の建立なり。四壁に洛陽の霊地名所を図絵す。仏壇は銀なり。高欄は磨金なり。つぎに小阿弥陀堂も同人の建立なり。」


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