柳之御所遺跡
柳之御所は、奥州藤原氏三代の秀衡や泰衡の政務の場として活用されていたと考えられており、吾妻鏡に記されている「平泉館」に比定されています。堀・園池・掘立柱建物跡などの遺構から、土器・陶磁器などの遺物が多数見つかっています。この柳之御所こと平泉館は、平泉の東側に位置しています。物資運搬など、水運の大動脈として活用された北上川がすぐ側に流れています。
平泉 ①中尊寺 ②金鶏山 ③毛越寺 ④観自在王院跡 ⑤白山社跡 ⑥無量光院跡 ⑦柳之御所跡 ⑧高館 |
吾妻鏡にある平泉館
『吾妻鏡』の文治五年(1189)8月21日に「平泉館」と記されています。現代語訳吾妻鏡で云うところの第4巻、奥州合戦の項です。頼朝の軍勢から逃亡していた泰衡は、平泉の館を通り過ぎ、わずかに朗従ばかりを館の内に遣わし、高屋や宝蔵などに火を放ったとあります。頼朝は翌日の22日にここ平泉の中心区画に到着し、無残にも焼失したその館を目の当たりにしています。
柳之御所跡 |
柳之御所史跡公園
柳之御所だけに限った話ではありませんが、いくら重要な史跡とはいえ、これだけの広大な敷地をそのまま史跡公園とできることに驚きます。鎌倉じゃ考えられません。鎌倉の大谷戸一つにほぼ相当する広さです。敷地を全部まわるとなると結構歩くので、レンタルサイクルで来て良かったです。
柳之御所史跡公園 ①厩 ②広場・廊下状建物 ③園池 ④中心建物 ⑤高床建物 ⑥廃棄穴 ⑦竪穴建物 ⑧大型建物 ⑨道路跡 ⑩堀 |
入口から順に歩いていくと所々に案内板が設置されていて、ここにはこういうものがあったとか色々詳しく解説してくれています。
付属建物跡 |
園池と中心建物
ここでは大型の建物が集中しています。規模が大きく池や広場に面していることから平泉館の中心的な施設と考えられています。西側の建物は、11m×14mの大きさで、東側にあった建物は南北が25mもあったそうです。
廊下状建物 タイルで表してくれている 中心建物につながっていたのだろうか |
金鶏山を向こうに中心建物や庭に面して池が見つかりました。池の水は湧水や雨水を利用したと考えられています。相変わらずここでも中島らしき造作がみられます。平泉はお寺でも館でも何処でも浄土庭園付です。
園池 |
その他、柱の配置から高床構造と推定できる建物や、かわらけが大量に重なって出土している竪穴建物などが見つかっています。
井戸と廃棄穴
敷地内では64基の井戸跡がみつかっているとありました。広大な敷地とはいえ64基もの井戸が必要なのかと驚きます。それともそれくらい見つかるものなのでしょうか。その他、廃棄穴、汚物廃棄穴群などが発見されています。イメージしやすいように再現してくれています。
井戸 |
廃棄穴 |
大型建物
中心建物から離れた奥では、20×18mもある大型の建物跡が見つかりました。ここだけでなく平泉全体で今のところ最大の建物跡となっています。総柱の構造を持っているとありましたが、一体ここに何があったんでしょうね。
向こうに見える丘陵は義経がいたと伝わる高館 |
堀
さて、柳之御所のクライマックスです。平泉館は、総延長500mの幅14m・深さ4mの堀で囲まれています。そしてこちら下画像がその一部です。この大きさが伝わるかわかりませんが、小田原城で見た空堀レベルなんですけど・・、この時代にこんな堀があったのかと驚きました。ちなみに堀は空堀で土塁などは確認されていないそうです。
堀 |
道路跡と加羅御所
堀の近くでは道路跡・橋跡などが見つかっています。ちょうど隣接した地域が吾妻鏡にも記されている「加羅御所」があった場所だと伝わっています。ですからその道で加羅御所、そしてさらに隣接する無量光院などに向っていたものと考えられます。吾妻鏡によると、加羅御所は秀衡の邸で、泰衡が相続したとありました。つまり加羅御所が秀衡(と泰衡)の生活の場で、柳之御所が政務の場となっていたようです。
柳之御所から見た加羅御所方面 |
柳之御所資料館
資料館が敷地内にあります。かわらけはもちろん、まじないの道具、擬人化されたカエルが描かれた敷折などなど、色々な展示物があって面白かったです。目玉はこちら下画像の白磁四耳壺。これは大陸の品で、京都でもなかなか出土しないそうです。つまりどういうことかというと、平泉が直接大陸(宋)と交易を結んでいたことの証となるそうです。
白磁四耳壺 |
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