長者ヶ原廃寺跡
基本情報
名称:長者ヶ原廃寺跡住所:岩手県奥州市衣川区田中西
現状:史跡公園
平安時代、中尊寺の北を流れる衣川から北は「奥」と呼ばれ、蝦夷(えみし)の地となっていました。この境界地点には、藤原氏以前の奥州の支配者・安陪氏が本拠を置いていましたが、奥州藤原氏初代清衡も一族との争いに勝利した後、衣川に接する平泉に居を移しています。
平泉奥
長者ヶ原廃寺跡へ向かうため一般観光客があまり向かわないであろう中尊寺より奥に行ってみることにします。三方を川に一方を山に囲まれた自然の要害、平泉中心区画から抜け出します。国道4号奥州街道を進み中尊寺の側面を横切り衣川を渡ります。5月だというのに向こうに雪の帽子を被ったとても高そうな山が連なっています。
衣川 |
奥州街道を外れ広大な水田地帯に入り、まずは長者ヶ原廃寺跡という史跡に向かいます。見渡す限り田んぼで位置がよくわからないので、スマホのGPSが欠かせません。廃寺跡は遠目からは田んぼとなっているため、広大な田んぼから特定の田んぼを探すような難しさで、見つけるのにちょっと時間がかかりました。
見渡す限りの水田 |
長者ヶ原廃寺跡
長者ヶ原廃寺跡は、一辺約100m築地塀(ついじへい)跡が方形にめぐらされた平安時代後期の寺院跡で、発掘調査の結果、西門土塁跡・南門跡・本堂跡・西方塔跡などが確認されています。もともと義経を京から連れてきた三条吉次李春(金売吉次)の屋敷跡と伝えられてきましたが、礎石の配列や遺物の配置及び出土した土師器などから、藤原氏時代以前の寺院跡と考えられています。つまり安陪氏時代です。それにしても凄いです。普通に礎石が見えてます。ナニこの遺跡感・・
長者ヶ原廃寺跡 |
平安時代のレイライン?
発掘調査の結果、南門跡・本堂跡・北門跡の中心軸がそれぞれ揃えられていることがわかりました。そしてその軸線を延長すると、中尊寺のある関山の最も標高の高い位置に到達します。この時代からそんな設計をしていたなんて驚きです。
矢印が関山の最も標高の高い地点 |
築地塀跡
そしてこのなにげに盛り上がっている地形、築地塀(ついじへい)跡なんだそうです。田んぼの造成か何かで出来上がった地形かと思い、普通にその上を歩いてました。ごめんなさい・・。
まさかの築地塀跡 盛り上がっているのがわかりますよね |
吾妻鏡にも登場する長者ヶ原廃寺跡?
『吾妻鏡』文治五年(1189)9月27日条に、頼朝が安陪頼時の衣川邸跡を見学しにきている様子が記されています。「土塀の中には何も残されていない。秋草が生い茂っているばかりで、どこに礎石があるのかもわからない。」とあります。平泉では、この吾妻鏡の一幕をここ長者ヶ原廃寺跡に比定しています。ですからあの地上にむき出しになっている礎石は、頼朝が見たくとも見れなかった遺跡ということになります。というか頼朝の時代で既に寺院跡って・・すごい史跡ですねコレ。
説明を追加 |
七日市場跡と衣関
長者ヶ原廃寺跡から少し移動したところに、七日市場(なぬかいちば)という字名が残された場所があります。「なのか」ではなく「なぬか」と読むそうです。案内板によると、中尊寺の建立に伴って当時の主用道を境内に通し、衣関も寺の北側で衣川を渡る手前に設けました。その周辺に7日・17日。27日と、7のつく日に市が立ったとありました。平泉市街地内で最も栄えた市場だったそうです。ですから東北の大動脈、旧奥大道はこの辺りを通っていたのかもしれません。
七日市場跡 |
接待館跡
七日市場跡からも近い場所に今度は接待館跡があります。こちらも案内板によれば、藤原秀衡の母堂居館だと伝えられており、母堂は慈善のため関道を往来する旅人を接待してそれぞれにほどこしものを与えたところから、接待館と呼ばれるようになったとあります。また、一説には平泉府の迎賓館であったとも云われています。(秀衡の母を母堂と呼ぶようです)
矢印の場所が案内板のある所 どう考えても観光客が行っていいとは思えない場所にあるw |
ちなみに吾妻鏡では、安陪頼時の八人の男女子がここ衣関に邸を構えていたと記されています。辺りは農地と点在する民家といった風景ですが、当時ではなかなか豪勢な邸宅が並んでいたのかもしれません。
芭蕉さんじゃありませんがここもまさしく「夢の跡」 |
義経の衣川館って・・?
吾妻鏡によれば、義経は「衣河館」で藤原泰衡に攻められ妻子と共に自害したとあります。どう考えても衣河館とはこの辺りにあったのではないでしょうか。何故、平泉中心部にある高館が義経最期の地とされているのでしょうか。接待館が迎賓館であったという伝承からも、義経が一時的にもここで居を構えたと考える方が自然だと思いますが・・不思議です。
高館義経堂から見えた景色 |
金鶏山にある義経妻子の墓と伝わる石塔 |
衣関
吾妻鏡にこの辺りの地形を描写した記述があります。
吉川弘文館『現代語訳吾妻鏡』4巻より引用。
「衣関の地形はまるで函谷のようで、左に高山が隣接し、右には長い道が続き、南北には同じく峰々が連なっていた。四、五月に至るまで残雪が消えることはなく駒の形に残り、そこで駒形嶺と称した。麓には河が流れて南に向っており、これが北上河である。衣河は北から流れ下ってこの河に合流する。」
この吾妻鏡の文章を書いた人と同じ景色を眺めているようでちょっと感動しました。吾妻鏡に記されたそのままの地形が残されているんじゃないかと思えてきます。
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