白鳥舘遺跡
白鳥舘遺跡は、前九年合戦(1051~62)で、源頼義・義家父子と戦った安陪貞任の弟の白鳥八郎則任(吾妻鏡では行任)の邸跡と伝えられています。但し、この地では、安陪氏時代に限らず、10~15世紀にまでかけた遺構・遺物が見つかっています。北上川を監視することができるこの要衝の地は、10世紀以降も断続的に利用されていたことがうかがえます。
Google mao 平泉 ①平泉中心区画 ②長者ヶ原廃寺遺跡 ③白鳥舘遺跡 |
平泉中心区画から衣川を渡り、安陪氏の痕跡が残る長者ヶ原からさらに北上します。平泉中心部よりさらに壮大な自然の景色が開けます。
平泉バイパス北口辺り |
平泉中心部から大よそ5kmぐらいでしょうか。無人ではあるものの観光客向けの駐車場兼案内所のような場所がありました。しかも結構立派なパンフレットまで用意されています。辺り一面は水田となっていてあぜ道のような場所を奥に進みます。
ここから白鳥舘遺跡 右上の建物が案内所 |
途中で長者ヶ原で見た基壇らしき遺構に似た地形がありました。あそこで見たものは本当に当時の遺構だったのか不安になってきます・・。
長者ヶ原廃寺跡にもあったそっくりな地形 |
さらに順路などの看板が随所で掲げられています。パンフレットも丁寧に作られているし、予備知識がなくともこの遺跡を満喫できます。こんな人の来なさそうなところまで丁寧に整備されています。
看板が出たらもう既に白鳥舘 |
白鳥舘概要
白鳥舘は、西から北上川に突き出す丘陵の先端に位置しています。この丘陵全体がきっと城館だったと思われますが、ほぼ民有地となっているため全てを探索することはできません。下地図画像にある本丸跡・二の丸跡・東側斜面平場・川沿いを見学できるようになっています。
①本丸跡 ②東側斜面平場 ③二の丸跡 ④川沿い |
10世紀から16世紀まで長期間にわたり使われていたことが明らかになっています。10世紀は集落、14~15世紀には城館、16世紀には集落として利用されています。特に11世紀から15世紀までの間は、北上川交通の要衝地として機能したと考えられます。奥州藤原氏もこの川なくして国内外から多くの物資を運搬することはできません。この地を治める者が必ず押さえなければならない水運の大動脈です。
伝本丸跡
丘陵部に入っていくといきなりそれらしい地形が現れます。後で気付きましたが、下画像は本丸跡平場と二の丸跡平場の間となります。ここでは幅6m・深さ2m前後の堀が本丸と二の丸をそれぞれ囲むように廻っていたそうです。もちろんそれらは埋められています。
本丸跡平場は、15世紀頃に構築されたもので、もともと先端は川に面していて周囲を見渡せたとありました。
本丸跡平場 |
東側斜面
本丸跡から奥に進むと丘陵の東側となり斜面にひな壇状地形がみられます。平泉でこれほど明確な段状地形を見たのは初めてです。狭い鎌倉と違ってこちらではわざわざせせこましい地形造作など行わなかったのだと思います。ここでは10~11世紀にかけての遺構・遺物が出土したそうです。そしてこのひな段状地形は、城館の造成におって形成されたものだとありました。まさしく城郭遺構でしょうか。
ひな段状地形になっているけどこの画像だと伝わらないかも・・ |
平場の先端からようやく北上川を望めました。本丸跡と同じぐらいの高さなので、本丸跡からもこのように見えたのだと思われます。
んんっ~ まさしく北上川を監視する要衝の地 |
二の丸跡
東側斜面から南に進むと二の丸跡平場となります。こちらは盛土と切土によって構築された15世紀頃の平場です。土塁・崖・堀で囲まれています。発掘調査の結果、多数の建物跡が見つかりました。神社がありましたが、パンフレット等が何も触れていないので、付近住民の方の私的なものなのかもしれません。
二の丸跡平場 |
川沿い
丘陵部から出て川沿いを進んでみました。先ほどの東側斜面と同じような景色が望めました。そにしてもさすが北上川って大きいです。
途中で大きめな石が転がっていたりしたので、周囲を見渡してみるとやはり、丘陵部壁面が石切りされています。石材を調達したのか、それとも城郭なのか、どうなんでしょう。
白鳥舘と言っても、ほとんど15世紀頃の遺構が目立ちます。比較的当時のままに遺構が残されている平泉ではちょっと珍しいのかもしれません。後世においてこれだけ断続的に改変されてきたということは、ここがそれだけ平泉周辺にとって、とても大事な土地だったからなんでしょうね。
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