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三浦氏はどこに行ってしまったのか

2020/08/07

三浦氏 人名

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三浦氏はどこに行ってしまったのか


三浦氏はどこに行ってしまったのか

今回は、関東の名族・三浦氏が滅びたのち、一族が一体どこへ行ってしまったのかという疑問に、名字がどのように日本列島に分布しているのかという手法で解明を試みたいと思います。

目次 ●三浦氏の行方
●その後の三浦氏
●名字による追跡検証
●三浦義同の弟は本当に三浦に残ったのか
●房総半島の三浦氏
●三浦姓の意外な?分布
●佐原系芦名氏
●南都留郡富士河口湖町の謎
●南都留郡での三浦氏の驚愕の正体
●まとめ


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三浦氏の行方


永正十三年(1516)7月11日、三浦道寸義同が伊勢宗瑞(北条早雲)の攻勢に耐え切れず、新井城にて自刃、これにて最後の相模三浦一族が表舞台から姿を消してしまいました。その後、残された三浦氏及び一族はどこに行ってしまったのでしょうか。今回はその三浦氏の痕跡をたどってみようと思います。

三浦一族がどこに行ってしまったのか、それは文献資料で大よその見当はつくものの、今回は日本姓氏語源辞典という、特定の氏姓が日本列島にどのように分布しているのかというところまで教えてくれるサイトを見つけたので、そちらと文献資料を照らし合わせながら三浦氏の行方を追ってみたいと思います。

新井城荒井浜
相模三浦一族の終焉の地

その後の三浦氏


三浦義同が滅びた16世紀当時、南房総の安房国を支配していた里見氏の配下で最も力を持っていた正木氏、また三浦多々良氏の後裔といわれる薦野神五郎、そして佐奈田与一の系統とされる真田氏などが三浦一族だといわれています。一方で平安末期から鎌倉時代にかけて南房総が三浦氏の所領でもあったことから、和田・朝比奈(朝夷)などを名乗る人物らも一族の末裔である可能性が高いでしょう。

その他、そのまま三浦半島に残った一族もあり、義同の弟とされる出口氏がその後も抵抗を続けていましたが、後北条氏側の懐柔によって配下となる選択肢を選び、北条水軍に組み入れられています。

三浦氏系図

三浦氏系図

三浦氏は、康平六年(1063)に前九年合戦の功績として、平為通が三浦郡を獲得し、衣笠城を築き三浦氏を称したのが始まりとされています。三浦氏系図には諸説あるものの、『新横須賀市史』によれば、良文ー忠道ー忠通ー為通ー為継ー義継ー義明という系譜が各諸系図...

名字による追跡検証


下図は日本姓氏語源辞典の検索結果画面です。都道府県・市区町村・小地域でその名字の分布を表してくれる他、それぞれのカテゴリーでランキングを示してくれます。ちなみに下図は「和田」の検索結果となります。図の色の濃淡を見ても、和田さんに関しては概ね全国的に分布していることがわかります。

そこでこの和田という名字が日本全国に多いことから、三浦和田氏の和田だけを抽出することはほぼ不可能なので、今回は和田氏系列の検証は見送ります。またそういった意味では、三浦さんの名字も意外に少なくないので判断が難しいかもしれませんが、何はともあれ調べてみましょうか。

日本姓氏語源辞典「和田」検索結果より
〇リンク:「日本姓氏語源辞典「和田」検索結果

三浦義同の弟は本当に三浦半島に残ったのか


それでは、まずは近場からということで、三浦半島に残ったとされる三浦道寸義同の弟・出口氏を調べてみましょう。出口という名は新井城の出口付近に拠していたことに因むと鈴木かほる先生の著書にあったので、全国的にも城郭・地形地名として多いのかもしれません。

日本姓氏語源辞典「出口」検索結果より
〇リンク:「日本姓氏語源辞典「出口」検索結果

検索結果からも、やはり出口とは三浦地方特有の固有名称ではなく、特に関西・九州で顕著に広がっていることがわかります。しかし都道府県別で神奈川県が6位、市区町村で三浦市が10位、小地域で三崎町諸磯が6位となっています。さらに三崎町諸磯でみてみると、地域で最も多い名字となるようです。

ということで、基本的に出口という名字が全国的にもそれほど多い訳ではないなかで、三崎町にこれだけ出口姓が集中しているということは、文献で伝えられている史実からも、出口氏がこの地に拠した結果によるものだと、姓氏追跡調査の結果からも言えるのではないでしょうか。

新井城油壷湾
当時の三浦水軍もこんな風に停泊していたのではないかと想像させる胸熱な景色

新井城跡

新井城跡

永正九年(1512)、伊勢宗瑞(北条早雲)が岡崎城を落とし、三浦氏は住吉城まで後退を余儀なくされました。後北条氏の支配は三浦半島を除く相模のほぼ全域に及ぶこととなり、これより本格的に両者が対峙していくこととなります。三浦義同(道寸)は、住吉城から後...

房総半島の三浦氏


次は房総半島に渡った三浦氏を調べてみましょう。上述したように、和田の追跡はあきらめて、正木氏を調べてみたところ、四国にもルーツとなる正木という地名があるためか大阪・広島などにも広がっていてよくわかりません。そこで岡崎義実の子で佐奈田与一の系統・真田氏をみてましょう。

日本姓氏語源辞典「真田」検索結果より
〇リンク:「日本姓氏語源辞典「真田」検索結果

こちらも概ね全国的に分布しているようですが、都道府県と市区町村別で千葉県・南房総市がランクインしています。真田姓もそれほど多い名字ではないので、それらが南房総地区に集中しているということは、文献資料が伝えるように、真田氏の末裔がそのままそこに残っていた結果だと思われます。

朝夷郡(南房総市)の正文寺
前身が真田氏の菩提寺と伝わっている

正木氏菩提寺・正文寺

正木氏菩提寺・正文寺

応永三十年(1423)の『鎌倉御所持氏御教書』(極楽寺文書)に、「安東郷朴谷村を真田刑部左衛門尉が押領していた」という記録が残されています。そして今回訪れる正文寺は正木氏の菩提寺ですが、前身は真田氏の菩提寺であったと伝わっています。房総半島にも勢力を...

三浦姓の意外な?分布


それではいよいよ、三浦さんの分布を確かめてみましょう。都道府県別でも市区町村別でも東北・北海道に偏っていることが顕著に表れています。

日本姓氏語源辞典「三浦」検索結果より
〇リンク:「日本姓氏語源辞典「三浦」検索結果

日本姓氏語源辞典「三浦」検索結果より

これはですね、会津地方に渡った佐原系三浦氏だと思われます。奥州合戦の勲章の功として、佐原義連が源頼朝から会津を賜り、のちに子の景連の一族が河沼郡蜷川庄(河沼郡会津坂下町)を領し蜷川氏を名乗り、同じく義連の子の盛連の系統も会津地方周辺の土地を相続し、それぞれ猪苗代・比田・藤倉・加納・新宮を称しました。なかでも会津・大沼の二郡を領した光盛が会津もしくは芦名を称しています。のちの戦国大名として知られる蘆名氏の系統です。

それから面白いのは、小地域別でみると、山梨県南都留郡富士河口湖町に全国でも高い割合で三浦さんが集中していることがわかります。これはどういうことなんでしょうね。でもここはひとまず東北の三浦さんを追ってみましょう。

満願寺に伝わる佐原義連の墓
鎌倉時代後期から公けになっている三浦氏のほとんどはこの義連の系統

満願寺

満願寺

満願寺の縁起によれば、寿永三年(1184)、佐原義連が平家討伐のため西国に出陣する際、自らの姿を像に刻ませ、一堂を建立して安置し、軍功成って帰郷後、大伽藍を建立し満願寺と号したと伝えられています。 寿永三年(1184)2月の時点で19歳とあったので、ちょ...

佐原系芦名氏


ということで芦名さんを調べてみました。やはり東北・北海道に偏っていることが顕著に表れています。この時点で三浦姓が東北に多いのは、本当にそれらが三浦氏の末裔であれば、会津地方に渡った佐原系三浦氏がさらに東北各地、そして北海道にまで広がっていった結果だと考えるべきでしょうか。またそうだとしても、芦名だけでなく三浦姓が多いのは、子孫の皆さんが蘆名でも佐原でもなく三浦にまで遡って復姓しているということでしょうかね。

日本姓氏語源辞典「芦名」検索結果より
〇リンク:「日本姓氏語源辞典「芦名」検索結果

日本姓氏語源辞典「芦名」検索結果より

南都留郡富士河口湖町の謎


それでは先ほど三浦姓で検索したところ小地域別で1・2位を占めていた山梨県南都留郡富士河口湖町にスポットを当ててみようと思います。しかもよくよく見てみると南都留郡というカテゴリーであればベスト10に4つもランクインするというこの現象。これは一体どういうことなんでしょうか。山梨県といえば甲斐なので武田氏の所領のはず。三浦氏には縁もゆかりもなさそうに思えますけどね

日本姓氏語源辞典「三浦」検索結果より
〇リンク:「日本姓氏語源辞典「三浦」検索結果

南都留郡での三浦氏の驚愕の正体


富士河口湖町と三浦氏で調べてみると、超世志さんという方のこちらの「サイト」が見つかりました。そしてなんと、

「山梨県の富士谷(桂川上流の富士吉田市や南都留郡の山中湖周辺)に、南朝正統家の隠れ城(富士谷御所)が存在した」


とあります。山中湖からも近い観光名所・忍野八海を含む辺りですね。行ったことのある方も多いのではないでしょうか。また忍野八海の忍野とは、この忍ばれる御所にその名が因むようです。

夏夜の忍野八海


元中五年(1388)、足利義満率いる15万の大軍に富士谷御所を急襲され、南朝方の小室門院元子内親王は、遠江国(静岡県牧之原市大寄町)へ落ち延び、応永元年(1394)に無念のなかで崩御されたそうです。そしてこれに付き従っていたのが、なんと、三浦氏なんだそうです。

さらにもっと情報はないのかと調べていると、今度はこちら酒入陽子さんという方の『徳川四代将軍家綱生母宝樹院と富士山御師三浦家』(PDF)という資料が見つかりました。こちらによれば、以下。

「江戸時代に甲斐国都留郡川口村(現山梨県南都留郡富士河口湖町)で三浦氏が富士山御師となっていた」


とあります。「え~」三浦氏が講中やっていたことも驚きですが、これってどう考えても上記した小室門院元子内親王に付き従っていたあの三浦氏の末裔ですよね。また、御師といっても帯刀を許される特別な立場にあったそうです。

ですから14世紀に南朝方の親王に付き従って都留郡にやって来た三浦氏は、そのままこの地に定住し、江戸時代では御師を生業としていたんですね。これはちょっと予想外の結果でした。

※冨士山御師とは「富士講・御師」(北口本宮富士浅間神社HP)

まとめ


●三浦氏は、三浦半島や房総半島に残った者、そして芦名をはじめとする佐原系三浦氏が東北に広がり、また甲斐国都留郡(現在の富士河口湖町)にて南朝方に付いた一部の三浦氏が富士山御師として活動していたことがわかりました。戦乱の世の中では先祖伝来の土地に領主として留まり続けるのは至難の業ともいえるのでしょう。一族の大よそが他所に、そして特に東北方面に移り住んでいったことが姓氏調査の結果からわかりました。


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