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【源頼朝】の善光寺詣りにみる行列の構成と隋兵の役割

2025/10/19

考察・研究 寺院 長野

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【源頼朝】の善光寺詣りにみる行列の構成と隋兵の役割

右大将家【源頼朝】の善光寺詣り

『吾妻鏡』では建久八年(1197)とその前後併せて3年間の記事が抜けてしまっているため記録されていませんが、『立川寺年代記』によれば、源頼朝は建久八年に善光寺へ参詣したとあります。また『相良家文書』の「右大将家善光寺御参随兵日記」では頼朝に隋兵として付き従った御家人名簿までもが残されています。源頼朝が善光寺に参詣したことは確かなようです。そこで今回は、自身が善光寺に行ってきた記念として、その相模家文書にある隋兵一覧を参考に、鎌倉幕府の行列の構成と隋兵の役割を勉強してみました。皆さんもご一緒にいかがでしょうか。

右大将家善光寺御参随兵一覧

「先陣」
佐原十郎左衛門尉   長江四郎
千葉次郎       和田次郎
武田兵衛尉      平井四郎
里見太郎       同五郎
伊澤五郎       南部三郎
加々美次郎      村山七郎
浅利冠者       新田蔵人
村上判官代      佐竹別当
所雑色        橘次
江間太郎       小山七郎

「後陣」
千葉新介       葛西兵衛尉
北条五郎       佐々木五郎
千葉平次兵衛尉    梶原刑部兵衛尉
八田太郎左衛門尉   江戸太郎
土屋兵衛尉      長井六郎 
佐々木三郎兵衛尉   加藤次
梶原源太左衛門尉   野三刑部丞
望月三郎       相良四郎
海野小太郎      藤澤四郎
小山五郎       三浦平六兵衛尉

参照;こちらは慶応義塾大学メディアセンターデジタルコレクション『源頼朝善光寺参詣随兵日記』を書き写したものです。


まずはこれを見て色々思うところもあるかと思いますが、ひとまず、鎌倉幕府の行列における構成と隋兵の役割についてポイントを押さえておきましょう。滑川敦子『鎌倉幕府行列の成立と「随兵」の創出』を参考にさせていただきました。ありがとうございます。
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「随兵行列」の基本構成

先随兵   :行列の最前列
次随兵   :主君の直前または直後を固める
後随兵   :最後尾を守る

頼朝期鎌倉幕府の行列は、軍陣を模した編成をとっており、隋兵はいわば行列の護衛兼威儀を示す軍勢であり、先随兵・次随兵・後随兵と、源頼朝を中心とした三層構造をなしていました。

先陣「先随兵」の選抜傾向

最前列(先随兵)に選ばれた人物の特徴として、まずは東国の有力御家人(在地武士)、そして戦功の顕著な者にその傾向がみられます。行列では「武威を示すこと」が目的の一つでもあるため、実戦経験豊富で勇名の高い者など、視覚的に威圧感を与える存在が最前列に選抜されます。頼朝期鎌倉であれば、梶原景時・和田義盛・畠山重忠・三浦義澄らの名が吾妻鏡に記されています。「先随兵」は名誉職ではあるものの、護衛・先陣としての実働性が求められる位置でした。

後陣「次随兵」「後随兵」の選抜傾向

先陣こそ男の勲章かと思いきや、興味深いことに、頼朝の近臣や側近は、むしろ中央列・次随兵・後随兵に配置される傾向があります。特に「次随兵」は、行列の最も重要な位置であり、頼朝のすぐ前後・左右を警護する役目を担っていました。戦場よりも政務・儀礼が重んじられ、例えば、建久元年の京都入洛であれば、京風作法を理解する人物が選ばれています。いわば信任と格式を兼ね備えた儀礼的エリート層と言えるでしょう。そのため、単に武勇があるだけでなく、主君の信任が厚く、礼法にも通じた人物が後陣に選ばれます。

まとめ

随兵行列は軍事を模した行列ではあるものの、単なる頼朝の護衛ではなく、幕府権威の象徴的演出の場でもありました。例えば『玉葉』には、頼朝上洛時、武装(騎馬・弓箭を帯す)はしていたが、甲冑は着用していなかったという記述があります。武装(騎馬・弓箭を帯す)という武家的威儀を見せつつも、あまりにも過度な武装(重厚甲冑)は控える”折り合い”をつけていたようです。現代風に言うのであれば、行列にもTPOがあったということになります。また特定の人物が特定の位置に絶えず選抜されるのではなく、行列の政治的な色合いによって、先陣・後陣に振り分けられ、さらに個人の家格が細かい順次に影響を与えます。
善光寺頼朝十念寺

源頼朝の善光寺詣り行列・隋兵の考察

「先随兵」
先随兵最前列左列(上位)は、佐原十郎左衛門尉(義連)、そして右列(下位)に長江四郎(明義)、一列後ろに和田次郎(義茂)の三浦軍団です。義連は一ノ谷の戦いで「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた猛者であり、また上総広常と岡崎義実の酒の席での言い争いを宥め治めた人格者でもあります。納得の先陣最前列です。そして武田兵衛尉(有義)・伊澤五郎(武田信光)・南部三郎(光行)・加々美次郎(小笠原長清)・浅利冠者(長義)と、甲斐源氏でガチガチに固めています。「武威を示す」「威圧感を与える」役割感が伝わってきます。

「次随兵」
要の次随兵は、江間太郎(泰時)と小山七郎(結城朝光)。これも納得ですね。確かに吾妻鏡を読んでいると、二人共頼朝から気に入られているのであろう雰囲気が伝わってきます。戦国時代でいう小姓にも近い感じだと思います。若いし。あと所雑色(平基繁)と橘次(公業)も次随兵だと思われます。頼朝が好きな京方の御家人ですから礼儀作法がなっているのでしょう。また次随兵は衣装を合わせたりもするそうです。

「後随兵」
個人的に意外だったのが後随兵、メンツを見ると確かに、上記した後隋兵の傾向にあったように、頼朝の側近、及びその家の者です。御所に出仕している人たちです。また建久3年(1192)に頼朝が永福寺供養に出かけたときは、後陣が布衣を着用しているとあったので、今回も善光寺詣りですから、そのような服装だったのかもしれません。

善光寺詣りだけに、信濃勢の望月三郎(重隆)、海野小太郎(幸氏)、藤澤四郎が後列にいます。望月三郎と海野小太郎は鎌倉に人質として送られた木曽義高の側近として一緒に付き従って来た子たちです。そして最後尾に小山五郎(長沼宗政)と三浦平六兵衛尉(義村)がいます。若い頃の義村とはいえ、義澄の嫡男ですから、この最後尾にも何かしら意図があるのかもしれません。

( )内はこちらでの注釈です。間違っていたら申し訳ありませんが、建久年間の吾妻鏡での記述を参考にしています。その他、千葉次郎(相馬師常)、葛西兵衛尉(清重)、北条五郎(時房)などよく見かける名前がありますね。

善光寺詣りに行ったその他の人たち

それでは、他にも善光寺に行った鎌倉の有名人を探してみました。文献・資料に記されている人は意外にも多くはありませんでした。以下、年代・名・資料の順です。

建久4年(1193)虎御前    『吾妻鏡』
元仁2年(1225)塩谷朝業   『信生法師集』
弘安2年(1279)一遍     『一遍聖絵』
正応2年(1289)後深草院二条 『とはずがたり』

虎さんは曾我兄弟の仇討ちで知られる曽我十郎祐成の妾です。その十郎の供養のため善光寺に行ったと吾妻鏡に記されています。一遍さんは弘安2年(1279)と弘安9年(1286)の二回善光寺に訪れています。『とはずがたり』の著者で知られる二条さんは、鎌倉に立ち寄ったのち善光寺に向かったとされていますが、信濃ではなく川口の善光寺ではないかという疑惑が一部であるそうです。確かに鎌倉でも「化粧坂を下りて由比ヶ浜に出た」という誤記がみられます。同書はリアルタイムではなく晩年の彼女が記した回想録なので仕方ない事情もあるのでしょう。
元彼の供養に来たという虎さん 善光寺大勧進前にて

江戸時代、信濃善光寺、甲斐善光寺、武蔵(川口)善光寺が、三大善光寺として賑わっていたそうです。但し二条さんの時代に川口善光寺がそのような名所になっていたかは疑問です。ちなみに二条さんは記していませんが、鎌倉には新善光寺がありました。小田原北条氏時代に葉山に移転しています。

源頼朝の善光寺詣り行列・隋兵の違和感

挙げるときりがありませんが、行列には北条時政・梶原景時・和田義盛・畠山重忠・江間義時といった大物がいません。建久10年(1199)に編成された合議制の13人が誰一人いません。何があったのでしょう。意図して若手を中心とした編成にしたのでしょうか。上記したように、吾妻鏡は建久8年(1197)とその前後併せて3年間の記事が抜けてしまっているので、この辺りの事情がよくわかりませんが、幕政の重鎮たちとの間に亀裂でも入っていたのでしょうか。頼朝は善光寺詣りの2年後となる建久10年(1199)に不慮の事故で亡くなります。もしくは暗殺されます。頼朝不在の間に鎌倉で重鎮たちが暗殺計画を練っていたという陰謀論めいた考えが浮かんできました(笑)。
頼朝の時代の善光寺跡地

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