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なぜ修験道の山は岩石だらけなのか

2019/09/17

修験道

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なぜ修験道の山は岩石だらけなのか


なぜ修験道の山は岩石だらけなのか

これまでに修験道や密教の痕跡のある山にいくつか訪れましたが、いつからか、今回のタイトルである「なぜ修験道の山は岩石だらけなのか」という疑問が生じるようになりました。調べてみるとその答えはとても簡単なものでしたが、今回はその答えのさらに奥にあるテーマへの探求がメインとなります。ということで今回は、なぜ修験道の山は岩石だらけなのかという疑問から導かれた修験道の知られざる側面に迫ってみようと思います。

修験道とは


まず最初に、本題に入る前に、修験道とは、さらには山岳信仰とは、という根本的な部分を宮家準著『役行者と修験道の歴史』から引用します。

修験道は日本古来の山岳信仰が外来の仏教・道教や成立神道の影響のもとに平安時代後期にひとつの宗教形態をとるにいたったものである。


山岳信仰とは、仏教が伝播する以前の日本独自の純粋な山や自然への信仰心であり、さらに付け加えると、自然信仰もしくはアニミズムに近い考え方だと思われます。その山岳信仰と仏教が合わさったものが修験道、もしくは山岳仏教などと呼ばれるようになりました。修験道とは廃仏毀釈以前の神社のように神仏習合であり、また上記引用した一文からも、修験道とは宗教形態であり、寺院に統率されていたことからも、大まかには仏教の宗派の一つと捉えても問題ないのかもしれません。

大磯からの大山
高麗山ハイキングコース』より

修験道のはじまり


『日本三大実録』の貞観十年(868)7月9日条に「吉野の深山で修行した道珠が修験があると聞かれて天皇に招かれた」と記されているのが修験という言葉の初見となります。山岳修行を通して験力を修め加持祈祷の効験が著しい者を修験者として崇めるようになってきたのが9世紀頃からだと云われているので、やはり概ねその辺りが修験道という宗教形態がカタチを成してきた頃だと考えられます。

湯河原・城山のしとどの窟
湯河原・真鶴史跡めぐり 城山ハイキングコース編』より

修験道の開祖 役行者


修験道の開祖とされる役小角(A.C.634~701)は、大和国葛城郡の出身で、空を飛び、呪術で鬼人を使役し、金剛蔵王権現を召喚することもできるという、修験者という枠を超えたまさに魔法使いのような人物として語られてきました。

しかしこの修験道のカリスマをよくよく調べてみると、役小角に関する正史の記録は、延暦十年(791)に完成した『続日本紀』の文武天皇三年(699)5月24日条にある「役小角を伊豆に配流した」という記事のみであることがわかりました。但し、なぜ配流されたのかといえば、韓国連広足という人物が「役小角が怪しい言葉で人を惑わしている」と讒言したことによるものであり、また実際にも「鬼神を使役して、水を汲み、薪をとらせ、その命令に服さないときは呪縛した」などと世間では噂が広まっていたということでした。ですから魔法使いとまでは言いませんが、彼が呪術者のような存在であったことは確かなようです。

役小角が何故このようなファンタジーな設定になったのかといえば、そもそも、最澄が天台宗を、空海が真言宗を開いたように、宗教・宗派には開祖が必要とされています。上記したように、日本古来の山岳信仰が仏教と融合し独自の進化を遂げた修験道には、これといったカリスマが見当たりませんでした。そこで白羽の矢を立てられたのが、役小角です。彼はのちに役行者と呼ばれ、多くの修験者たちから崇められるようになり、修験道の開祖として仮設されるようになりました。

伊豆山神社にある役行者像
熱海で十国峠・岩戸山・伊豆山ハイキング』より

母なる山と霊山のはじまり


宮家準著『修験道』より引用
日本の民俗宗教では、霊山は山の神をはじめとする神霊の居所、死霊の祖霊化する場所、生児の魂の原郷である母なる山とされている。


山は人類にとって必要不可欠な水を与えてくれます。さらに動物や植物などの食料を与えてくれるばかりか、木材・石材・鉱物などの文明を育むための材料まであらゆるものを創出し与えてくれます。このことからも、山は母であり、また母であるということは、山は霊魂の原郷とも考えられ、新たな生命の根源であると共に死霊が祖神化する場所とされてきました。

修験道にある擬死再生のモチーフはこうした我々祖先の根底にあった思想を象徴しているのでしょう。山を生業の場とする猟師・木こり・鉱夫らが女性の峰入りを拒んだのは、山の女神のご機嫌を損ねないようにとの思いからであり、母なる山を畏怖していたからだと思われます。

筑波山にあった母の胎内くぐり
岩をくぐると穢れのない心身に立ち返るという、つまり再生を意味する
筑波山ハイキングと霊石・奇岩・怪石群』より

なぜ修験道の山は岩石だらけなのか


ということで、大まかなリにも修験道の何たるかをお伝えしたので、さっそく本題に入りたいと思います。これまでに訪れた修験道の山に共通するのは、上記したように、岩石・巨石だらけの景色が拡がっていたことでした。この「なぜ修験道の山は岩石だらけなのか」という疑問に対する答えがこちら、宮家準著『修験道』にありました。以下引用。

「修験の山の多くは火山であった。」「もっとも、信仰の対象となるためには里から望見され秀麗な山であることが必須の条件である。」


ということで「なぜ修験道の山は岩石だらけなのか」それは火山だったからなんですね、想像よりもあっさりした答えでしたが、言われてみれば確かに、と頷かずにはいられません。さらに、修験の山とされるには秀麗な山であることも条件だとありますが、これは具体的には神奈備山が含まれているのかもしれません。

ちなみに「多くが火山」とあったように、修験道の山の全てが火山という訳ではありません。例えば、修験道の山であった筑波山は火山ではありません。但し、筑波山はマグマが地下で固まった深成岩が土地の隆起によって現れたもので、斑レイ岩と花崗岩で構成されています。花崗岩は石造物に用いられることが多いので聞いたことがある方も多いと思います。一方で斑レイ岩は風化に強いため、砕けることはありませんが、節理(割れ目)が生じてしまい割れてしまうことがあります。これが巨石を生む要因となるようです。

筑波山の斑レイ岩
筑波山ハイキングと霊石・奇岩・怪石群』より

なぜ修験道の山は火山なのか


「なぜ修験道の山は岩石だらけなのか」の答えが火山だったからということがわかりましたが、そうすると今度は「なぜ修験道の山は火山なのか」という疑問が生じますよね。そこで火山によって人類が受ける恩恵を調べてみました。以下。

溶岩や火山灰などの噴出物が堆積し広大な平地がつくられること
温泉が湧き出ること
火山の地下で豊富な鉱山資源が生成されること

「なぜ修験道の山は火山なのか」という疑問に対して、このなかから選ぶとすればどれでしょう。ズバリ!鉱山資源以外ありえないのではないでしょうか。したがって「なぜ修験道の山は火山なのか」という疑問に対する答えは、修験者が鉱山を探していたからだと結論付けても間違いではないかもしれません。ということで次は修験道と鉱山の関わりについて調べてみました。

駒ケ岳
ご存知のように箱根山系は現在も活火山
元箱根石仏・石塔群』より

空海も行基も鉱石狙い!?


鉄の暗号・熱海編』でも触れましたが、空海の真言宗一派の寺院が水銀鉱産地と関連する場所に立地している事例が多いことからも、空海が水銀を含む鉱石(辰砂)についての知識を持っていたことが指摘されています。さらに、それは行基から受け継いだ知識であるとも考えられています。そこで井上孝夫著『房総地域の山岳宗教に関する基礎的考察』に興味深い記述がみられます。以下同書からの引用。

行基開山伝承や弘法大師、慈覚大師の来山伝承はいずれも山岳宗教につきまとう類型化された伝承であり、修験道とのかかわりを思わせる。


関東には空海や行基が開いたとされるお寺や神社が多く存在しますが、これは本人たちが訪れたのではなく、弟子などのその一派が教線を拡大していたと考えるのが妥当かと思われます。そして空海も行基も丹(辰砂)から水銀を精製する知識と術を持っていたとするならば、空海一派も行基一派も教線を拡大しながら鉱山を探していた可能性が考えられます。そして同書にとどめの一発となる一文がありました。以下引用。

修験者が岩山を好むのは技を磨くこと以上に、鉱脈探査がしやすいという本源的な要求に基づいている。


この一文からも、やはり修験者が鉱脈探査をしていたことがわかりました。さらに、岩石の多い火山だった山が修験者の修行の場に適しているということもわかりましたね。彼らは教線の拡大だけでなく、鉱山資源を獲得することによって資本や支持を得ていたのではないでしょうか。そして次は、鉱山と修験道の山の関わりが神話の時代からあったのではないかという例を挙げてみます。

江ノ島の岩屋に祀られる弘法大師像
江ノ島』より

日本武尊の東征は鉄が目的!?


日本武尊(ヤマトタケル)の東征ルート上に千葉県富津市にある鹿野山があります。鹿野山にある神野寺は、598年に聖徳太子によって創建されたと伝わる関東最古の寺院で、密教系修験道の場として栄えていました。

ここには阿久留王(悪路王)が日本武尊に征伐されたという伝説が残されています。阿久留王(悪路王)というこの字面からも、いかにも悪者が正義の味方である日本武尊によって倒されたといった感がありますが、これは、鉱山資源が豊富な鹿野山を支配していた在地勢力が、大和政権に倒され支配下に置かれたことを意味するとも云われています。ことの真意は今となってはわかりませんが、少なくともこのことから、大和政権が古くから東国における鉄をはじめとする鉱山資源の開拓に乗り出していたことがうかがえます。

鹿野山からの圧巻の景色
鹿野山神野寺』より

日本武尊の大和政権が具体的に西暦何年なのかは算出できませんが、少なくとも修験道の始まるずっと以前の時代であったことは確かでしょう。このように、中央集権と在地勢力が争うほどの良質な鉱山地帯が後世において修験道の山となる例があるようです。

役行者が訪れた先にあったもの


ここでもう一度、役行者について触れてみようと思います。伊豆に流された役小角は、昼は禁を守って大島にいましたが、夜は富士山などで修行していたとされています。そこで役小角が訪れたという東国の霊地を地図にまとめてみました。

Google map 役行者の東国での足跡
詳細は最下部にあるGoogle mapで確認できます

役行者が東国で訪れた霊地

●相模国(箱根・足柄・大山・日向山・八菅・江ノ島)
●伊豆国(天城・走湯・日金山・大島)
●常陸国(筑波山・鹿島・香取・浮巣)
●駿河国(富士山)

凄いですね、個人的に行ってないところ、もしくはよくわからない所もありますが、ほぼ産鉄地及び鉱山、もしくは鉄の伝承に関わる土地ばかりです。但し、上述したように、役小角が呪術者であったこと、また伊豆に配流されたことは事実ですが、あくまでも彼は後世にて仮託された存在であるため、彼が実際にこのように霊地巡礼をしたのかどうかは定かではありません。しかしこれらが後世において役行者が訪れたと設定された霊地だとすれば、逆にそこが修験道の地であったのだということがわかりますね。

富士山は別格として、箱根・大山・日向山・八菅・伊豆山(走湯・日金山)・筑波山は修験道の山。足柄は箱根山系から続く火山で、伊豆大島も三原山という火山があります。また天城は鉱山があることで有名です。そして鹿島・香取にある両神宮の祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)といって、鉄の国・出雲にて大国主命と国譲りの交渉に当たった神です。しかも香取は楫取りから転訛した地名だと云われています。楫(舵)取りは船乗り、つまり遠方から鉄を求めて航海してきた人たちのことです。

日金山
熱海で十国峠・岩戸山・伊豆山ハイキング』より

ちなみに房州三山や秩父・三峯神社などの名所がスッポリと抜けていますが、修験道にも宗派があるため、伊豆山・走湯山を中心とする派閥に房総半島や武蔵国の地域が属していなかったことが推測されます。

修験道と鉱山① 伊豆山神社


それでは、修験道と鉱山がいかに密接な関係にあったことがわかったところで、これまでに個人的に訪れたことのある修験道の山のなかでも際立って鉄をはじめとする鉱山の痕跡のある霊地を簡単に紹介します。

伊豆山・走湯山(現在の伊豆山神社)は、かつて「伊豆の走井(走湯)・信濃の戸隠・駿河の富士の山・伯耆の大山」と数えられたように、日本でも有数の霊験所であり修験道場でした。こちら『鉄の暗号・熱海編』で詳しく記しましたが、伊豆山神社領域には鉄に関する地名がこれでもかと散りばめられていました。鉄や丹(辰砂)をはじめとする鉱山地帯であったことは間違いないでしょう。

伊豆山領域にある明星の井戸
明星天子とは製鉄民の星神・虚空蔵菩薩のこと
鉄の暗号・熱海編』より

修験道と鉱山② 大山・日向山


雨降山とも呼ばれる大山は、その名のとおり雨乞い信仰の地として信仰されていましたが、修験道の山でもありました。大山もかなり鉄に関連しています。そもそも大山寺に本尊として祀られているのが鉄不動です。これは大山寺を再興した願行憲静が鎌倉で鋳たものだと云われています。

また、大山寺の開山が東大寺を開いたことで知られる良弁であることも鍵となります。良弁は金鐘行者とも呼ばれ、奈良の大仏造像にも携わった鉄(金)に関わる人物です。大山が鉱山であったことが良弁の時代に既に中央集権に認知されていたのでしょう。さらに大山頂部に祀られた阿夫利神社が石尊大権現であったことも見逃せません。

大山寺の鉄不動
雨降山大山寺』より

大山と稜線で連なる日向山にある日向薬師は、上述したように、鉱山との関わりが指摘される行基の開山で、かつて奥の院には鉄の神・虚空蔵菩薩が祀られていました。さらに日向山には亀石をはじめ巨石が多く存在します。そして今思えば、大釜弁財天の大釜も鉄に因む名称だった可能性が考えられます。

日向山の巨石群中最大の亀石
日向山ハイキングコース』より

修験道と鉱山③ 房州大山不動尊


千葉県鴨川市にも大山寺があります。こちらも良弁の開山と歴史は古く、さらに同じく鉄不動が本尊として祀られています。また雨乞いの風習が伝えられているところまで一緒です。特筆すべきは周辺地域の小字名が鉄に関する地名ばかりであることでしょうか。さらに付近には大々的な棚田が現在も残されていますが、これは鉄穴(かんな)流しという、傾斜地を利用して砂鉄を採取した跡を稲作に切り替えたという説があり、実際にも全国的にそうした例は数多くみられるそうです。

大山不動尊からも近い棚田 まさかの鉄穴流し跡
大山不動尊の謎と滝本観音』より

修験道と鉱山④ 清澄山


房州三山の清澄山も鹿野山と同じく密教系修験道の山です。こちらには天富神社が鎮座していることから、清澄寺が開かれる以前から、忌部族によって産鉄の地として開拓されていたと考えられます。清澄寺の本尊は鉄の神・虚空蔵菩薩、そして裏山には同じく鉄の神・妙見菩薩が祀られています。ガチガチの鉄の山です。

清澄寺の千年杉
杉は鉄を表すキーワード
清澄山・清澄寺』より

まとめ


ということで、修験道には鉄をはじめとする鉱山資源が深く関わっていたことが伝わったと思いますがいかがでしょうか。なぜ修験道の山は岩石だらけなのか、それは修験者が火山、もしくはそれに準ずる様相の山を選ぶからであり、またなぜ火山を選ぶのかといえば、岩山が修行の場として適している一方で鉱石資源を得られるという二重の利点があるからだということがわかりました。

鋸山でのめぐちゃん

あとがき


浄発願寺や箱根の阿弥陀寺を開いたことで知られる弾誓上人がなぜか鉱山に限って姿を現していることを知ってからでしょうか、今回のテーマである「なぜ修験道の山は岩石だらけなのか」という疑問を掘り下げてみようと思っていました。周りに同じような趣味の人がいないので「修験者の狙いは鉱山だったんだよ」なんて話しても、きっと何のリアクションもないだろうし、いつもこうして皆さんに話し相手になってもらってます(笑)。感謝してます。それでは皆さん、今回も最後まで読んでもらってありがとうございます。

伊豆山の修験猫 アタニャン
873段・比高差153m・伊豆山神社参道』より

〇参考資料

宮家準著『修験道』『役行者と修験道の歴史』
近藤祐介他著『修験道史入門』
井上孝夫著『房総地域の山岳宗教に関する基礎的考察』
静岡県『伊豆半島の火山』

なぜ修験道の山は岩石だらけなのかの関連地図

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