建長寺招寿軒のおばあちゃんの話
建長寺招寿軒のおばあちゃんの話 |
今回は歴史といったら歴史なのですが、大正時代の建長寺のお話です。
建長寺 |
建長寺境内にある謎の民家
建長寺の中心伽藍を抜け、半僧坊方面へ奥に入っていくと、途中に寺院にはとうてい見えない普通の民家が並んでいます。「建長寺の境内に誰か住んでいるのだろうか?」と疑問に思い、以前にこの一画にある家の前で座っていたおばあちゃんに話しかけたことがあります。
おばあちゃんは、招寿軒といって建長寺に訪れる観光客にお茶やお餅などを提供するお店を亡きご主人と営んでいたそうです。ですから建長寺境内にある謎の民家はそうした昔の名残りであることがわかりました。ちなみにお店はもう営業していません。また、おばあちゃんは元々自分と同じ東京の出身で、さらに地域も近接していたこともあって話が盛り上がりました。
建長寺境内にある招寿軒 |
「あなたが同郷だから話すのよ」とも言われたので、あまりプライベートなところまでは記せませんが、おばあちゃんはお嫁さんとしてここ招寿軒に嫁いできました。それがなんと大正12年の関東大震災のときだったらしく、それはそれは大変な時だったと言っていました。
そしてひとつ面白かったのが、そのおばあちゃんの結婚式の際、やはり建長寺関係者ということで、建長寺の当時の住職、そして円覚寺と寿福寺の住職も出席されたそうです。つまり鎌倉五山の第一位から三位までの格式高いお寺の住職がおばあちゃんの結婚を祝いに出席したんです。「これが中世だったらおばあちゃんどんだけ偉い人なんだよ」って2人で笑って話していたのを覚えています。
招寿軒の看板 |
葛西善蔵と招寿軒
それからしばらくして建長寺の歴史を調べていると、建長寺発刊の『建長寺』に、あのおばあちゃんの招寿軒のことが記されていました。それによれば、葛西善蔵という大正文壇の私小説作家が、持病の喘息に加えて肺結核を併発したため、静養をかねて創作にも専念しようと建長寺塔頭の宝珠院に移ってきたそうです。そこで善蔵は食事や酒を、あの招寿軒から運んでもらっていたそうです。大正12年9月の関東大震災に遭って、東京へ引き上げるまでの約4年間、彼は宝珠院で作品を執筆していたそうです。
建長寺塔頭宝珠院 |
葛西善蔵が記した当時の様子
葛西善蔵の作品に当時の建長寺の様子が記されています。
建長寺の境内を通り抜けて、右に折れてこれからが半僧坊だと云う狭い道の片側に、何々講といろいろな講中の名を染め抜いた旗などを物々しく立てて、7・8軒の茶屋が低い板葺の軒を並べて、江ノ島式の「寄ってらっしゃいまし。ご一服召しあがっていらっしゃいまし。お草履を召していらっしゃいまし。お帰りなさいまし・・」を、婆さんも娘も顔を並べて、一流の調子で呼び立てると云った体裁なのである。
建長寺境内にある品川講からの寄贈碑 |
なんと、善蔵がいた大正年間、つまりあのおばあちゃんがお嫁に来た頃は、建長寺境内には江ノ島のように飲食店が軒を連ねていた景色があったのです。今とはまた違った建長寺の姿があったんですね。
さらに『建長寺』では、東京に引き上げた善蔵が招寿軒の娘のハナさんとその後同棲することになったと、けっこうツッコんだ話が載せられていました。食事やお酒を運んでもらっているうちに善蔵がハナさんを見初めたようです。また「妻子との問題」といった記述がみられたので、どうやら善蔵は別に家庭があったのに、ハナさんと実質上の夫婦関係となったようです。そして彼は昭和3年の7月に病のために42歳の生涯を閉じたとありました。
建長寺半僧房からの景色 |
この葛西善蔵のエピソードを読んだとき、曖昧な記憶から一瞬あのおばあちゃんがハナさんに思えましたが、そもそもおばあちゃんは上記したように、東京の出身で嫁入りでここにやってきたし、そのやってきた時期も善蔵が引き上げるきっかけになった関東大震災の頃だったので、ほぼ入れ代わりだったことがわかります。でもこの話から察するに、善蔵に見初められたハナさんとは、おばあちゃんの亡き旦那さんの親族なのかもしれませんね。
ということで素朴な疑問を解消するために話しかけたおばあちゃんをきっかけに、昔の建長寺の様子を知ることができましたが、建長寺境内にお茶屋さんが何軒もあったなんて考えもしませんでした。
招寿軒前に咲く椿 |
あとがき
これは招寿軒のおばあちゃんとは別の鎌倉のおばあちゃんから聞いた話なのですが、明治・大正・昭和初期に生きた女性は、現在と違って自由に職を選ぶこともできなかったので、とりあえず結婚するまでは女中さんとして雇ってもらう人も多かったそうです。
但し女中さんといっても、雇い主は上流階級の旦那様な訳ですから、自分の家が困っているときにはお金の都合もすぐに付けてくれるし、その話を聞かせてくれたおばあちゃんの雇い主なんて、女中さんを何人も連れて、小坪からヨットを繰り出し毎日のように遊覧していたそうです。
明治・大正・昭和初期の鎌倉には、政治家や軍のお偉いさんが軒を連ねて大邸宅を構えていたように、鎌倉に住むのが当時の上流階級のトレンドでもあったようです。ですから「あの家には女中が8人もいる」「あの家なんて20人は雇っている」なんて話がすぐに伝わり、雇う女中さんの数がその家の経済状況を表す指標の一つとなっていたそうです。
自分の周りでも「誰々がビジネスがうまくいって派手な生活をしている」なんて噂はよく聞きますが、女中を何人も雇って毎日のようにヨットでクルージングしているなんて話は聞いたことがありません。生きている人から聞いた話なのに感覚が桁違い過ぎてもう歴史の話ですよねコレ(笑)。
建長寺から見た由比ヶ浜 当時はあの海で毎日のようにクルージングしていたらしい |
基本情報
場所 :建長寺住所 :神奈川県鎌倉市山ノ内8
駐車場 :有り
拝観時間:8時30分~16時30分
拝観料 :大人(高校生以上)500円・小人(小中学生)200円
2 件のコメント:
招寿軒の嫁入りしたおばあちゃんの話を読みました。
正直、驚きました。
このおばあちゃんは嫁入り時期を逆算すると、娘のハナさんとほぼ同い年ですね。
ハさんが93歳でH3年に亡くなられています。
おばあちゃんと話したこの話は、相当昔の話になりますが?
何時頃でしょうか?
2014年のことです。
実はこれ他の人からも「そんな看板はなかった」「そんなおばあちゃんを見たことはない」などと責められています。
神に誓って作り話ではないですし合成写真でもありません。でも確かに、記事を作成していて年齢の違和感を感じました。
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